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「関西写真家たちの軌跡100年」写真展図録 収録論文

関西の写真  中島徳博

掲載論文の前半を著者の許可を得てwebで公開します

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関西の写真(5)


関 西 の 写 真

中 島 徳 博 

  浪華写真倶楽部の創立

 明治37年(1904)1月、大阪で誕生した浪華写真倶楽部は、一昨年(平成16年)創立百周年を迎え、平成17年(2005)大阪、奈良、東京で記念の展覧会を開催したばかりである。浪華写真倶楽部の創立に関しては、桑田正三郎の『桑の若苗』に創立記念写真と次のような短い記述がある。

「娯楽写真家の団体たる浪華写真倶楽部の創立は翌37年のことであって砂川鷺城、奥戸自得、薄雷山、大西素洲、横尾重之、木村喜代次郎其他の諸氏創立の衝に當り、石井吉之助宅を会場として写場を設け、毎月撮影並に交互研究の会が開かれた。」(注27)

 倶楽部創立の頃の事については、『写真界』大正7年1月号に掲載された宗得蕪湖の談話と『浪華写真倶楽部会報』30周年記念号(昭和9年1月)に掲載された「浪華写真倶楽部30年の回顧」という座談会(昭和8年3月5日、桑田正三郎の追悼会のおり開催)記録が最も詳しい情報を提供している。「写壇今昔物語」を書いた米谷紅浪にしても、浪華写真倶楽部入会は明治41年以降のことであり、最初の4、5年に関しては完全に空白状態であることを忘れてはならない。

 宗得恒三郎(蕪湖)は、明治10年(1877)4月7日大阪に生まれ家業は貿易商だった。明治26年(1893)から写真を始め、大阪写真倶楽部、また浪華写真倶楽部創立の会員で、「温厚の風、包容の資」(奥戸自得)に富み、倶楽部のまとめ役として皆の信望を集めていた。また大正元年(1912)、天弓会の創立に参加した7人のメンバーのひとりでもあった。雑誌『写真界』の奥付は長らく印刷者:梶原謙吉(啓文)、著作者:宗得恒三郎(蕪湖)の名前で発行されていた。大正8年(1919)10月28日、突然の脳溢血で亡くなり、その死は会員たちに衝撃を与えた。翌年の6月、代表作12点を収録した『蕪湖遺作集』が発行され、6月27日常念寺で友人たちによる追悼会が開催された。

 『写真界』に掲載された大家訪問記(16)は、大正6年(1917)12月25日に宗得の自宅で行われたインタビューである。以下、関係のあるところだけを、抜き出す。

「大阪での写真の倶楽部といへば浪華倶楽部の前に大阪写真倶楽部といふものがあったのです。之が素人の撮影団の嚆矢です。出来たのは明治25 年だったと記憶します。大江善助君、肥田直治郎君、方勝助君、私などゝいったやうな顔触れで、鴻池さんも暫く入会つて居られました。(中略)此の倶楽部は会員の数もおいおい増加え、一木君といったやうな熱心な方もありましたが、年の経つうちに他方面の遊が烈しくなって、いろんな弊害が生ましたので四五年で解散しました。(中略)それから数年の間は大阪に写真の団体はありませんでして、京都の方がずっと盛んでした。内貴さんなどが中心でネー。現今では反対に団体としては当地が余程盛んなやうですが・・・(中略)で、37年に浪華倶楽部が生れたのです。前申した一木君、新町の大西君、船場の緒方君、谷町の薄君、私などで芦田君、横山君なども其前後から始められました。亡くなった桑田商会の石井支配人なども大分骨折でした・・・春になれば丁度足掛け15年、多少の消長はありましたが、娯楽団体としては健全に発達して来たものと云ひ得るでしょう。」(注28)

 突然の死の2年前に行われた宗得のこのインタヴューは、浪華写真倶楽部創立の現場に立ち会っていた人物の貴重な証言である。その中でも重要な点は、浪華写真倶楽部の前に、明治25年(1892)頃アマチュアの写真団体として大阪写真倶楽部が結成されていたことであり、その中で一ノ木清次郎(1874−1907)が求心的役割を果たしていたということである。後に見るように、一ノ木清次郎は大阪写真倶楽部と浪華写真倶楽部を結ぶキーパーソンであった。

 第二の証言は、昭和8年(1933)3月5日の「浪華写真倶楽部30年の回顧」という座談会である。倶楽部創立から30年たち当時の記憶もかなり薄れていたが、「幸ひ古いことを御存じの方が居られますときに今の中に皆様のお話を伺って置きまして、この1月の総会で決議になりました倶楽部の沿革誌編纂の材料に致したいと思ひます」という趣旨の下で開かれたこの座談会は、後の米谷紅浪などの回顧の原資料となっている。

 この座談会では、浪華写真倶楽部30年の歴史を(1)難波時代、(2)例題集時代、(3)衰退時代、(4)旧式写真黄金時代、(5)新旧両思想混沌時代、(6)現代、の六つの時代に区分して話が展開された。

 ここで問題になるのが(1)の難波時代だが、それについては次のように語られている。

「(小林)創立時代のことは横尾、勝、桑田、小林等の諸君がよく御存じのことでありませうが、当時難波溝の側当時の橋筋停留所南へ入る演舞場の北隣付近にありました石井吉之助氏の宅に事務所を置いて居った明治三十七八年頃のことであります。(中略)
(勝)先づ第一の難波時代即ち溝の側の石井吉之助君がお世話して下さった時代です。横尾君に一つ。
(横尾)私は忘れてしまったがなあ。最初桑田の親父さんがやったので、どうもその時分のことはよく覚えてへんが。(中略)
(上田)石井さんも写真をやられたんですか。
(横尾)石井君は言ふだけのことだよ。
(勝)やったよ。
(上田)活動をやったんぢゃないですか。
(横尾)口だけだ。十日戎に名妓八千代を撮ったことがあったね。
(上田)大阪では活動の元祖だと言ふぢゃありませんか。
(桑田)弁天座でやったが元祖ではありません。」
(注29)

 ここでは、さらに写真例題集と倶楽部との関係、博物場における第1回目(?)の展覧会、砂川雄俊のことなど、重要な事が次々と話題になってくるが、さしあたり私たちが検討するのは上に引用した部分である。ここではっきりすることは、最初は浪華写真倶楽部の事務所を「難波溝の側当時の橋筋停留所南へ入る演舞場の北隣」にあった石井吉之助の家に置いていたことと、桑田正三郎自身が積極的に関与していたということである。

 『桑の若苗』には、浪華写真倶楽部創立記念写真が掲載されている。この写真に付けられたキャプションは以下の通り。

「浪華写真倶楽部は遠く明治三十七年の創立にして漸次発展して今日の盛況に及べり創立当時は南地演舞場の北石井吉之助宅に写真場を設けたりしが大火の為め類焼せり」

 この写真には14名の人物が写っているが、私が名前と顔とを確認できるのは次の6名だけである。砂川雄俊、薄恕一、奥戸善之助、宗得恒三郎、桑田正三郎、石井吉之助。この写真で、中心に座っている二人の人物こそ、大阪の法律と医学の世界の大立者砂川雄俊(1860−1933)と薄恕一(1866−1956)に他ならない。

 砂川雄俊(かつたか)は万延元年(1860)姫路に生れた。父は姫路藩の中で勤皇論を唱え、屏居を命じられた。明治5年(1872)東京に出て開成学校で学ぶ。明治15年(1882)東京大学法科を卒業して、坪内逍遥らと大隈重信を援け早稲田大学の創立に参加、同校の講師となる。明治16年大阪に移り、大阪府会議長、大阪弁護士会長、大阪商業会議所の特別会員を務めた。明治35年には姫路市から選出された衆議院議員となる。関西大学の理事、講師も務めた。晩年は一切の公職から離れて弁護士に徹し、関西法曹界の重鎮といわれた。昭和8年4月73歳で没。

 薄恕一(じょいち)は慶応2年(1866)筑前の糟屋郡席内村に生れた。明治20年(1887)大阪に出て苦学の末、明治22年医師試験に合格する。明治23年(1890)、大阪谷町6丁目に薄医院を開業。「貧乏人は無料、生活できる人は薬代一日4銭、金持ちは2倍でも3倍でも払ってくれ」という方針を貫いた。明治40年大阪府会議員となり、以後7期28年務める。また相撲を愛し、相撲の世界での「タニマチ」の語源ともなった伝説の医者である。昭和31年11月90歳で没。

 二人はそれぞれの世界で著名な人物たちだが、彼らと写真について触れられることはほとんどない。しかし砂川は明治37年の『浪華写真倶楽部』第1号に、「ハレイションに就て」という記事を発表し、薄は《緑下の垂釣》という作品を掲載している。前者は「左の一篇は浪華写真倶楽部顧問砂川雄俊氏が同会に於て講演せられし筆記の抜粋なり」というリード付きの5ページにわたる文章で「未完(まだある)」となっている。ここで砂川が論じている「ハレイション」とは、ガラス乾板を用いる際、ガラスの厚みで生じる反射について、その防止策を述べたものである。私は最初、この筆者は化学の学者かなにかと想像していたが、この座談会の中でも倶楽部の中で天弓会の問題が紛糾した時、臨時総会の座長としてそれを治めた砂川のことが話題になっていた。

「(花和銀吾)砂川何と言ふ弁護士ですか。
(勝)砂川雄俊。弁護士会長をしたこともある人。
(花和)雄俊さんならまだ達者でゐますよ。先生得意の化学応用で頭も真黒にして高等学校の先輩で同窓会にもよく来られます。」
(注30)

 ここで花和が言っている高校とは第一高等学校のことである。化学が得意で自分で白髪染めをしていたことが語られているが、花和が「まだ達者でゐます」と語った砂川雄俊の亡くなったのは、この座談会の翌月のことだった。

 創立記念写真の中で、砂川の横で腕を組んだ和服の人物が薄恕一である。『写真界』昭和7年9月号の大家訪問記(23)に和服を着た薄の顔写真が掲載されている。後ろに立っている人物のうち、左から二人目が大阪地方裁判所の部長から弁護士に転じた法曹界の実力者奥戸善之助(1870−1928)である。また前列に座っている4人のうち一番左端が宗得恒三郎(1878−1919)であり、右端が桑田正三郎である。後列に立っている6人のうち右から二番目の洋装の人物が石井吉之助(1874−1912)である。私はこの写真の撮影場所を、石井の家に作ったという写場と推定している。営業写真家の写場にしてはあまりに殺風景だからである。この写真に付けたキャプションの中で、桑田正三郎がわざわざ「南の大火(明治45年1月)」で類焼した石井宅の写真場について触れたのは、この写真撮影の場所がそれだったからではなかろうか。

 『浪華写真倶楽部』第1号は発行人:桑田床三郎、発行所:浪華写真倶楽部の奥付で明治37年12月28日に発行された。確認されるのは、私の手許にある一冊のみで、その後どうなったかは不明である。一年後の明治38年11月3日に発行された『写真界』創刊号の内容、記事が『浪華写真倶楽部』と重複していることを考え合わせると、『浪華写真倶楽部』は第1号のみで終ったもようである。巻末の「会員諸君に告ぐ」には次のように書かれていた。

「本誌初号は諸事未だ整頓致さず咄嗟の間に刊行せし為め記事の配列上大に蕪雑を極め候得共逐号鋭意益々誌面の改良を計る可く候間御了承相成度候」(注31)

 「咄嗟の間に刊行」という言葉が、突然登場したこの雑誌の編集の粗っぽさを物語っている。しかし、創立の年に発行されたこの雑誌は、資料的には非常に重要である。巻頭論文の岡田定次郎の「写真の沿革」は次のような言葉で始まる。

「本年1月、浪華写真倶楽部成る、爾来毎月集会を催ほして、会員相互の懇親と、智識の交換とを行ひ、大に本会の主意を発展して、常に得る所尠小ならざりしなり」(注32)

 これは浪華写真倶楽部が明治37年1月に創立されたという何よりも動かしがたい証言である。以来、毎月例会を持って親睦と研究を深めて行ったことが語られている。この号には、第10回、11回、12回の「印画品評例会」について触れている。日時等は次の通り。

第10回例会 明治37年10月2日(日)午後1時〜7時、参加者20余名、出品印画100余点
第11回例会 明治37年11月6日(日)午後1時〜6時、参加者30名、出品印画150点
第12回例会 明治37年12月4日(日)午後1時〜

 いずれも場所は「写真倶楽部」となっているが、これは「戎橋筋南水族館前」(注33)という石井吉之助の家のことである。この当時、毎月の例会は第一日曜日の午後とほぼ決まっていたようだ。一年後の明治38年の例会は、毎月第三日曜日に開催されているが、これが「来会者の便宜を計り、今後毎月21日午後3時より開催」となったのは、明治39年4月からのことである。

 私たちが確認できる最も古い例会(明治37年10月2日の第10回印画品評例会)での、互選による得点成績は次の通りである。

○第1等 95点 《番ひ鳥》辻善之助
 第2等 82点 《落日の漁舟》桑田勝三郎
 第3等 77点 《雪中の牛車》小川保次郎
○第4等 73点 《樹(緑)下の垂釣》薄恕一
○第5等 70点 《橋の朝霧》小川保次郎
○第6等 70点 《片男浪》石津月舟
○第7等 68点 《汀の秋草》一ノ木清次郎
 第8等 68点 《月下の梟》三浦彦次郎
 第9等 67点 《雨中の嵐山》一ノ木清次郎
 第10等 67点 《秋の暮》薄恕一

○印は、図版が『浪華写真倶楽部』に掲載。

 ここに登場する一ノ木清次郎(1874−1907)は、宗得のインタヴューの中で触れられていたように大阪写真倶楽部の時代から活躍していたアマチュア写真家である。明治40年、34歳の若さで亡くなり、『写真界』明治40年10月号には、以下のような追悼の記事が掲載された。

「君は吾大阪写真好事家の鼻祖にして去る明治25年の頃初めて写真術を研究せられ少しく其技の趣味を知るに及んで大江、石津の同僚諸士と相謀り同26年大阪写真倶楽部を創立し会員を募集して相互に研究せられたり蓋し大阪市に於ける好事写真家の団体を造りたるの嚆矢とす、後明治33年大阪博物場に於て第1回素人写真展覧会を開催せらるゝに方り君大に奔走尽力せられ又出品せられたりし(中略)明治36年浪華写真倶楽部の創立に際しては君大に奔走其労を採り創立より昨年迄5ヶ年の長日月幹事の椅子を占めて益々本会の為めに力を尽し(後略)」(注34)

 ここには明治26年大阪写真倶楽部の創立、明治33年第1回素人写真展覧会の開催、明治36(37?)年浪華写真倶楽部の創立、といった一ノ木清次郎の足跡が簡潔にまとめられている。浪華写真倶楽部では創立の時から幹事に就任しているが、写真界でのキャリアという面では最も影響力を持っていた人物のひとりだった。桑田正三郎がアマチュア写真家(好事写真家)たちの団体、浪華写真倶楽部を立ち上げるにあたって、法曹界の重鎮砂川雄俊を顧問として迎え、薄恕一、奥戸善之助ら有力な医師や弁護士などを創立メンバーに加えたことは、彼の写真材料商としての戦略を物語っている。そして、作品(内容)面での支柱を、一ノ木清次郎や石津月舟など、かつての大阪写真倶楽部のメンバーたちに期待したのではなかろうか。というのは、浪華写真倶楽部は純然たるアマチュア写真家たちの自発的団体だったわけではなく、桑田商会の顧客拡張のための事業の一環でもあったという側面を見落としてはならないからである。創立からのメンバーであった横尾重之の、「最初桑田の親父さんがやったので」詳しいことはよく憶えていないという発言は、その辺のニュアンスをよく伝えている。桑田正三郎は、浪華写真倶楽部の実質的仕掛け人だったのあり、長女政子の婿石井吉之助(1874−1912)や二女幸子の婿養子桑田勝三郎(1876−?)、長男桑田一郎(1883−1942)、三女富子の婿小林荘三郎(1883−?)ら、家族の主だったメンバーも何らかのかたちで浪華写真倶楽部と関わってくるのである。(注35)


  注記

(注27) 桑田正三郎『桑の若苗』p.13 (本文に戻る)
(注28) 「浪華写真倶楽部30年の回顧」『浪華写真倶楽部会報』30周年記念号、昭和9年1月、pp.103-136 (本文に戻る)
(注29) 前掲誌、p.111 (本文に戻る)
(注30) 前掲誌、p.130 (本文に戻る)
(注31) 『浪華写真倶楽部』第1号、明治37年12月28日発行。p.15 (本文に戻る)
(注32) 前掲誌、p.1。岡田定次郎は『写真界』でも、長らく巻頭論文を執筆し続けた。 (本文に戻る)
(注33) 当時、南の戎橋筋に水族館ができて、評判を呼んでいた。この水族館についての最も古い記録は、宮武外骨の『滑稽新聞』第4号(明治34年4月15日)に出てくる「大阪水族館の赤_」という記事である。明治36年、第5回内国勧業博覧会堺水族館事務局編で発行された『堺水族館図解』では、当時の各地に出来た水族館について次のように書かれている。「東京の浅草、大阪の難波新地、相州の江の島及び名古屋等に設けられたるも、何れも和田岬のものに倣ひしものにて、元より興行(みせもの)的のものにて」(鈴木克美『水族館への招待』丸善ライブラリー、平成6年1月)。浪華写真倶楽部の住所は、安堂寺町の桑田商会内に移るまで、石井吉之助の家の住所である「水族館前」あるいは「溝の側」、「橋筋停車所南へ入る演舞場の北隣」という表記がしばらく続いた。 (本文に戻る)
(注34) 『写真界』第2巻第12号(明治40年10月)p.57 (本文に戻る)
(注35) 石井吉之助(1874−1912)は、明治7年岡山県高梁町に生れた。小さい時から桑田商店に見習いとして勤め、明治27年、桑田正三郎の長女政子(1879生)と結婚。一男、四女をもうけた。桑田商会の支配人として、業務全般に関わった。明治36年、商業視察のためアメリカ、ヨーロッパを旅行。帰国後、今宮工場を立ち上げる。明治37年の浪華写真倶楽部創立にあたっては、難波水族館前にあった自宅に写場を設け、これを毎月の例会の会場に提供した。明治45年、39歳で病没する。桑田勝三郎(1876−?)は、明治9年京都市松原柳馬場の山口忠兵衛の次男に生れる。小さい時は京都の内田呉服店に勤めた。明治33年、桑田正三郎の次女幸子(1881生)と結婚。桑田家の入り婿となり、桑田商会の販売部長として、また会計部長として店の仕事に従事する。初期の浪華写真倶楽部では、自らも例会に作品を出品して高得点を獲得した。浪華写真倶楽部の会員たちからは桑田濶山の雅号で親しまれ、天弓会の創立に際しても事務方で協力した。桑田家の中では最も芸術的才能に恵まれた存在だった。その優れた品質で注目された『写真例題集』は、最初から桑田勝三郎の担当した印刷物だった。石井吉之助歿後、今宮工場の経営に専念し、新にコロタイプ工場を増設した。桑田一郎(1883−1942)は、明治16年桑田正三郎の長男に生れる。東京の暁星中学校卒業後、志願兵として歩兵第37連隊に入営。日露戦争に従軍した。明治40年、川口平治郎長女香子(1887生)と結婚。大正4年、商業視察のためアメリカ、ヨーロッパを旅行。帰国後は桑田商会支配人として、家業を統括した。全関西写真連盟の創立に参加、その後は委員として尽力した。昭和12年、浪華写真倶楽部特別会員に推薦される。昭和17年、芦屋の自宅で没。翌年、同じ昭和17年に亡くなった福森白洋、安井仲治、桑田一郎を偲んで、浪華写真倶楽部から『福森白洋、安井仲治、桑田一郎三氏追悼号』が発行された。小林荘三郎(1883−?)は、明治16年京都に生れる。小さい時から商業見習いとして桑田商会に入店。明治40年、桑田正三郎の三女富子(1885生)と結婚。桑田商会の営業部長として、一郎を支えた。浪華写真倶楽部の裏方として尽力し、『写真界』にもその名がしばしば登場する。 (本文に戻る)


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