関西の写真(6) 中 島 徳 博 「浪展」の展開 明治37年1月に創立された浪華写真倶楽部の第1回目の展覧会は、いつ、どのような形で開催されたのだろうか。これが予想外の難問である。先に紹介した、昭和9年1月の『浪華写真倶楽部会報』30周年記念号に収録された座談会では、勝汀舟が、「第1回の展覧会は実は展覧会と言ふのではなく素人写真品評会と言ふ」ものだったと語っている。米谷紅浪もこの説を受け入れ、「写壇今昔物語」では次のように書いている。 「翌38年には既に第1回展を開催したと言ふ事になって居ますが、種々調べて見るとこれは所謂『素人写真品評会』の程度であったらしく、一般観照者の選によって優秀作を定めたと言ふので、大西素洲、芦田閑月両君が挙げられて居ます、勿論写真記録はなくて果してドンナ傾向と程度のものであったか全く不明であります」(注36) 残念ながら、浪華写真倶楽部の明治38年の記録はほとんど空白状態である。やっと11月になって浪華写真倶楽部の機関誌として『写真界』が創刊され、例会の様子が把握される程度である。注目すべき記事は明治39年1月号に載った、本倶楽部の新計画として「前年度の優秀印画を大形のブロマイドに引伸し公開場に於て一般の縦覧に供すること」を挙げていることである。しかしこれもまた、実現されたものかどうか不明である。 明治41年の浪華写真倶楽部第2回展覧会まで、実際の参加が確認される展覧会等は次の三つである。
この中で戦捷記念博覧会は、日露戦争の勝利を記念して開催された一大イベントだった。展覧会は次の5部門から成っていた。第1部‐農業、林業、水産、採鉱及冶金、第2部‐化学工業、染織工業、作行工業、第3部‐機械、第4部‐教育、学術、衛生及経済、第5部‐美術及美術工芸。この内の第5部の中に写真が含まれ、小田垣哲次郎、桑田正三郎、上田貞次郎が常務委員を務めた。浪華写真倶楽部からは、一ノ木清次郎と石津月舟が審査員として参加した。結局、浪華写真倶楽部の第1回展覧会は、明治38年に開かれたとしても、私たちはその何の記録も見出せないのである。そのかわり、実質的に第1回展覧会に相当するものとして米谷紅浪も取り上げているのが、この明治39年の戦捷記念博覧会であった。そして、ここに出品された優秀作品20点は、当時桑田商会が発行していた『写真例題集』2冊に掲載されている。 浪華写真倶楽部の展覧会が「浪展」と呼ばれるようになったのは、かなり遅いある時期からのことである。明治41年6月、大阪博物場西北館で開催された第2回目の展覧会は、「浪華写真倶楽部第2回展覧会」と記載されている。以後、『写真界』では大体この表記を踏襲して、「浪華写真倶楽部第○回展覧会」か、あるいは浪華写真倶楽部を略して「第○回展覧会」とだけ表記されている。私が調べた限りでは、『写真界』に「浪展」という言葉が初めて登場するのは、大正12年9月号の都路苒清の「浪展鑑査参観の記」と米谷紅浪の「鑑別雑感」である。米谷の文章などはいきなり「本年の浪展に於て」という言葉で始まる。おそらく倶楽部内ではかなり早い時期からこう呼ばれていたのかも知れない。翌月の10月号の冒頭に掲載された森一兵の文章は、「浪展東京展観を終わりて」というのがタイトルであった。 時期を見てすぐ気づかれるのは、この呼称が浪華写真倶楽部の最初の東京での展観と深く結びついていることだ。大正12年9月号の都路苒清と米谷紅浪の文章が対象としたのは、浪華写真倶楽部第12回展覧会である。この第12回展は、大正12年7月9日から14日まで、大阪高麗橋の三越百貨店8階で開催された。梅阪鶯里の《越後の初冬》と福森白洋の《雪折笹》が並んで特選を獲得した展覧会である。この展覧会へ対する批評がいっせいに登場するのは『写真界』9月号の誌上だった。森一兵も同誌に掲載された「第12回展覧会を観て」の中で、次のように書いている。 「私たちは、あらゆるもの、時の力に向って感謝しないわけにはゆかない、浪華写真倶楽部が、難波の溝の側の石井君の二階で、小さい集会を開いてゐた巳来二十何年の間、種々の形に於いて会員の作品の発表もして来たのであるが、本年の展覧会位いに光彩の燦然たることは、空前である」(注37) 福森白洋と梅阪鶯里の作品を詳細に論じた後、森は最後の部分でこのように書いている。 「会場でゆくりなくも福原信三君に出会した、そして此の会を東京に持って行かうという希望が合体したので、咄嗟の間に定まってしまった、福原君は『東京を刺激する為めに』といはれたがそれには幾分の溢美もある、私は寧ろ『東京の刺激を受くる為めに』といひたい、而して今年の展覧会は、確かに東京の刺戟に耐えるだけの弾力が十分だと信ずるから。」(注38) 「(7月)17日夜」の日付のある森のこの文章から約2週間後、浪華写真倶楽部の最初の東京展は、8月3日から6日まで、銀座資生堂楼上において開催された。会期中の8月4日の夜に、東京會舘で東京の写真関係者たちとの懇親会が持たれた。森は『写真界』10月号の「浪展東京展観を終りて」の中で、浪華写真倶楽部の会員たちの作品に見られる特徴を次のように要約してくれた。 「それは堅い、クラシックな、貴族芸術の臭味を帯びたものでなく、去りとて自由奔放な、表現派のプロレツトカルトでもない、自由な、柔らかな体度の中にも、何か確かりとしたテクニックの約束を遵守して行かうといふ、旦那芸術である」(注39) これを森は浪華写真倶楽部の「落付いた味」と、高く評価するのであった。 「浪展」という呼称が、実際にいつ頃から使われたのかは詳らかでない。私が調査したのは、浪華写真倶楽部の機関紙『写真界』の誌上においてである。おそらく「浪展」は「研展」の本拠地、東京での展観を十分に意識した呼称だったと思う。しかもそのタイミングが、関東大地震とぴったりとシンクロナイズしたということに、私は運命の悪戯を感じざるをえない。鎌倉に住んでいた森一兵自身もまた、家族と共に被災者のひとりとなった。翌月の『写真界』11月号は、震災関連特集を組んだ。億川兆山は「『写真』に帰れ」を書き、淵上白陽は「短文をもって」を書き、森一兵は「大正震災の記」を書いた。いずれも私たちに既視感に似たものを感じさせる。それはつい最近の阪神・淡路大震災への対応と同じだからである。 注記
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