関西の写真(4) 中 島 徳 博 『月の鏡』 これまで、たびたび引用してきた桑田正三郎の『月の鏡』は、きわめてユニークな本である。写真師列伝の先例としては、明治44年から45年にかけて『写真新報』に連載された原田栗園の「本邦写真家列伝」がある。連載の第14回で尻切れ蜻蛉に終ったこの列伝と『月の鏡』は、「徳田孝吉」の逸話がそっくり重なるだけで、まったく別のものである。『月の鏡』は大きく二つの部分に別れ、第一部が物故人物、第二部が現存の人物を取り上げている。対象となった写真師は、第一部46名、第二部35名の計81名(注24)。その配列の順番を見てゆくと、ここには独特の秩序が支配していることに気づかされる。桑田正三郎の心の遠近法とでも呼べる「秩序」である。彼は取り上げるすべての人物を、自分との個人的な関係のもとに記述するのである。その最も極端な例を、『桑の若苗』で取り上げた17名(注25)の人物の中に見て取ることができよう。村井吉兵衛から始まり前川文嶺にいたる17名の中には、浅沼藤吉や小西六右衛門など写真関係者は当然のことながら、小川一眞、丸木利陽、内貴清兵衛などの写真家、藤沢友吉、諸星千代吉らの事業家、藤沢南岳のような漢学者、田村宗立、前川文嶺のような画家の他に、村井吉兵衛の新夫人や桑田の子供たちの通った有隣小学校の校長先生も含まれるのである。そこには単純な自慢話も含まれるかも知れないが、ここに一貫して流れているものは素朴な感謝の念であり、人間性に対する信頼である。 先に簡単に紹介したように、桑田正三郎は京都の人間であった。彼は京都の中京区堺町御池の武具商の家に生まれ、明治20年大阪心斎橋に支店を出すまでは、桑田商会は京都の松原通柳馬場の店だったのである。『月の鏡』第一部の5番目に登場する明石博高について記述する時、なぜか桑田正三郎の筆にはひときわ力がこもっている。 「先生名利の外に超越して細事に拘泥するを好まず常に公益を念とし敢て私事を顧みることなし。其の一生の事業企画只『京都の為め』の一語を以て尽く。」(注26) 明石博高が、桑田の少年時代、京都舎密局で最初に出会った写真器械の思い出と深く結びついているだけでなく、何よりも京都を愛するその心情に共感していたからこそに他ならない。明石博高から始まり、辻礼輔、堀与兵衛、横田朴斎、堀内信重、堤徳三郎、成井頼左、高木吉兵衛、小谷荘治郎と続く京都の太い人脈は、この本の骨格を成すものといえよう。 最初に登場する三人の写真師、下岡蓮杖、上野彦馬、内田九一に関しては誰も異論はないだろう。しかし奇妙なことに、この三人の生没年がすべて間違っていることには注意を要する。下岡蓮杖と上野彦馬の生年がそれぞれ文政2年(1819)と天保8年(1837)となっていること、また内田九一の没年が明治9年(1876)となっていることの理由が不明なのである。何らかの文書に依拠したとしても、下岡蓮杖が「92歳の長寿を保ちて終に卒す」と書いてあるから、文政2年の生まれでは計算が合わないことにすぐ気づきそうなものである。当初私は『月の鏡』には、何らかの種本があるのではないかと思っていたが、この三人の人物の最も基本的なデータの間違いを見て、その詮索を放棄してしまった。列伝のような人物辞典に似たものでは、生没年は最も重要なデータであり、それを平気で間違えるということは、この本がもともと別の趣旨を持っていることの証拠である。 桑田正三郎が考えていたものは、客観的な写真家辞典のようなものでなく、自分の知っている人たちの話だった。かつて上野彦馬には浅沼藤吉と共に長崎まで会いに出かけたし、富重利平からは貴重な資料を拝借した。もちろん桑田が、ここに取り上げるすべての写真家たちと直接出会っているわけでもないだろうが、彼らについては「よく知っている」関係だったのである。私が先に「心の遠近法」という言葉で言わんとしたことは、このことだった。ここで取り上げる人々は、すべて個人的なつきあいの圏内で語ることができる人々だったのである。 桑田正三郎の『月の鏡』のユニークな点は、客観的なデータよりも、個人的な関係を最優先する独特な秩序に貫かれている点にあった。それゆえこの本は、桑田正三郎の目を通して見た、写真家たちの話である。その時彼は、安政2年という自分の生れた年にこだわった。『月の鏡』の巻末に挿入された「時雨の夜談り」の中で、桑田は日本に写真が広まったのは安政年間のこととして、「斯く東西漸く斯の術の伝はり初めたる年に生れ出でける吾れこそ写真に浅からぬ因縁ありとこそ云ふべけれ」と感慨深げに書いている。 注記
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