HOME

「関西写真家たちの軌跡100年」写真展図録 収録論文

関西の写真  中島徳博

掲載論文の前半を著者の許可を得てwebで公開します

目次へ

関西の写真(3)


関 西 の 写 真

中 島 徳 博 

  桑田正三郎

 大正5年(1916)、大阪の桑田商会の創設者桑田正三郎(1855−1932)は、自分の還暦と大阪での営業30年を記念して、4月23日大阪ホテルにおいて盛大な祝賀会を開催した。営業写真家、写真材料商、新聞社、銀行、町内会、仕入先等の主だった招待客約200名が集ったこの祝宴は、桑田の長い生涯の中でもひときわ輝かしいピークを形作っている。この年の末、桑田はその記念事業の一環として2冊の本を上梓した。『桑の若苗』と『月の鏡』である。

 2冊は同じ菊版の大きさで紐綴じの和本形式の本である。『桑の若苗』は115ページ、『月の鏡』は126ページから成り、2冊一緒に、表紙に「桑の若苗」と書かれた紙の外箱に入っている。このページ数には、図版として多数挿入された写真のページは含まれないので、実際はもっとヴォリュームのある本である。『桑の若苗』は、桑田正三郎の自叙伝を主とした内容であり、一方『月の鏡』は桑田正三郎の目を通して見た写真師列伝である。

 以下に『桑の若苗』にもとづいて、この人物の生涯をスケッチしてみよう。
 桑田正三郎は、安政2年(1855)、京都堺町御池南に武具商を営んでいた小山庄助の息子として生れた。家は元治元年(1864)の禁門の変で焼失し、翌年8月、父庄助も病没した。当時住んでいた仮住居は三条寺町の東、石橋町だった。正三郎は、慶応2年(1866)から3年の約束で、大和大路五条下るの薬種商中野忠八方に奉公して商業の見習いをする。その間に明治維新の大激動を迎え、家を手放し母と別れて、明治3年(1870)から中野薬舗の裏店に住み込むようになった。その頃、鴨川夷川橋西詰に新しくできた京都舎密局に中野の息子篤五郎が入学し、正三郎も付人の名目で教室に出入りが許された。

 この京都舎密局ではじめて写真の機材と出会った事が、以後の正三郎の運命を大きく変えることとなった。写真術に興味を持った正三郎は、局長の明石博高等に受講を願い出たが、規定には写真専門の科目は無く、また受講の資格にも欠けるところがあり、この時の願いは却下された。

 しかし写真術に対する願望は強く、正三郎は田村宗立ら友人知己に相談をして、写真師の下で教えを受けることにした。

「当時京都には既に堀氏、堀内氏、吉田氏、其他二三の写真師があった、此三氏は遠く長崎より来京した安部氏(筆者注:亀谷徳次郎)に就いて写真術を習得した人々で、其他三井高福、辻礼輔、武田某及び前記の田村宗立氏等の如き研究好きの人もあった。然し当時の写真師から教授を受けるには多額の伝授料と高価な器械を要するので、已むなく自分は大阪神戸と探ね廻った。」(注19)

 正三郎の写真術習得の願いに応えてくれたのは、神戸の横田朴斎であった。横田はもともと京都二条城大手門前の人で、維新前からオランダ人に就いて研究し、当時は神戸元町鯉川筋で開業していた。横田が小山正三郎を受け入れた理由のひとつは、横田の京都時代に、正三郎の父庄助とも知り合いであったことである。この横田は、先に紹介した『新稿一橋徳川家記』の中の慶応2年8月9日の条に出てくる「京都二条堀川東入町横田栄五郎定職人阿部寿八郎を写真師として抱え入れた」の横田栄五郎の家の者であったことは間違いないだろう。『月の鏡』には、この恩人横田朴斎(彦兵衛)についてさらに詳しく記述されている。二条城大手門前(二条堀川東入)にあった横田家は家代々、献上品調達を生業とする旧家であった。京都の公家や所司代等にあいさつに伺う時には、必ずそれ相当の贈り物が欠かせなかったが、その献上品を一手に取扱っていたのが横田家であった。正三郎の父が武具商であったことを考えると、横田と小山は商売上の緊密な関係にあったことが理解できる。また将軍後見役、禁裏御守衛総督であった徳川慶喜との関係も、このライン(献上品調達−徳川家)からたどることができよう。横田は、明治2年(1869)新政府の通商司から金札に貼付する写真の制作を命じられた。(注20)

「先生之れが調製の寄托を受け自ら主任として京阪の写真師数名と力を協せ数万枚の調製を了す(此際一時に写真師を増加す)先生巨利を博して神戸に移り元町鯉川筋に写場を設け、当時他の未だ企及せざる四ツ切写真の需に応ず、賞賛頻りに至り内外人の喜むで先生の門に集るもの多し」(注21)

 しかしその後の横田は、事業に失敗して神戸から尾道市に移り住み、同地で撮影を続け、50歳にして尾道で没したという。『月の鏡』には、かつての弟子だった神戸の中村甚之助にあてた横田朴斎晩年の手紙(明治12年9月14日)が掲載されている。鶏卵紙の調色法を書いたり、トーマスコロジオンの新製品の送付を願ったりするこの手紙を見ると、かつて京都で将軍慶喜の下、幕末の四候の写真を撮影した人物の姿を思い起こし感慨深いものがある。

 正三郎が神戸で横田朴斎から写真術を学んだのは、明治5、6 年(1872/6)頃のことだった。正三郎は京都への帰路の途中、大阪に立ち寄り、この地の大井卜新、宮津賢治郎、葛城思風、田村景美、石橋松之助等を訪ねてさらに写真術の研究を続け、和田猶松、石川文右衛門からは「売品写真画」の作り方を教えてもらったという。

 明治6年(1873)頃、内外大小の写真画を携えて京都に帰った正三郎は、「西洋大眼鏡」を仕組んだり、各種の写真画を色々な小間物屋の店頭に飾って売ってもらったが、これがけっこうな商売になったらしい。

 明治8年(1875)、正三郎は富小路松原の桑田家に婿入りして、以降桑田正三郎と名乗ることとなった。桑田家は蝶又という紙商を営んでいたが跡継ぎがなく、正三郎の伯母の嫁ぎ先の関係で、正三郎の従妹に当たる智恵子を養女として迎えた。その智恵子と結婚したのが正三郎だったのである。

 桑田家に入った正三郎は、さっそく「家を改造し写場を設け、名所、旧跡、美人、風俗等大小の写真及び画帖を作って内外各地へ売出し、併せて写真材料、石版印刷用品、石版額面画等を取次販売」した。

 この頃の桑田正三郎の商売をうかがわせてくれるものが、『桑の若苗』に図版として掲載された「大日本帝国高貴肖像」という石版画である。明治天皇と皇后を描いたものだが、画面の左端に次のように印刷されている。

「出版販売本舗 西京松原通柳馬場東入 桑田正三郎写 明治十四年十一月二十四日」

 しかし、この図版の説明は次のようになっている。

「明治十四年京都画学校にて田村宗立氏教授の下に謹写したる石版画にして同校生徒の印刷したるもの」

 すなわちこの石版画は、明治天皇と皇后を撮影した内田九一の写真をもとに、田村宗立が石版に描き、それを京都画学校の生徒が印刷したものを、桑田正三郎の名前で販売したものである。したがって、この石版画には内田九一、田村宗立や京都画学校の名前はいっさい出てこない。かわりに、出版販売の責任者として桑田正三郎の名前だけが出てくるのである。同じように売出された、明治の元勲たちの肖像写真にしてもそうである。「明治維新勤皇十二大家肖像」の実際の撮影者は内田九一であり、それを印刷したのは東京印刷局であったにしろ、そのことの記載はいっさい無い。正三郎のように、それを複写した写真がよく売れたのである。

 こうした商売のやり方を見ていると、桑田正三郎は本当に写真師だったのかと思えてくるが、『桑の若苗』には、「桑田正三朗 二十八年像」と書かれた額面を床に置き、三脚に乗ったカメラの横に立った自写像「濡板四ツ切板の試写記念写真(明治十六年自宅に於て撮影)」(筆者注:実際は明治十五年撮影)という写真も登場する。また『月の鏡』には、当時多くの写真師が湿板コロディオン法に固執していたのに対し、乾板の使用を逸早く取り入れ、それを推進した京都の若手写真師三人組として、成井頼佐、小谷荘治郎との三人で撮った記念写真も掲載されている。また『月の鏡』に明治8年のものとて掲載された仮名手本忠臣蔵見立の西京写真師番付は、読み難い図版から私が解読したところによると、「明治七甲戌六月」のものであり、この左下にたしかに「桑田」(●田)(●は上が卉、下が木)の名前が登場する。しかし小山正三郎が桑田の家に入籍したのが明治8年だとしたら、これは別人かも知れない。あるいは明治7年6月の段階で、すでに桑田と名乗っていたのかも知れない。大正5年の桑田商会大阪開店30年記念会での主人挨拶の中で、桑田正三郎本人は「私は明治六七年頃から京都で写真に従事して居りまして」(注22)と述べているので、明治7年には自分の店を持たなくても何らかのかたちで写真の仕事に携わっていたことは確かだろう。

 明治20年(1887)、桑田正三郎は大阪心斎橋に支店を出し、そこで「当座は未だ小規模なもので、写真類は自家製品を、写真材料品は東京浅沼商店より、又石版印刷物及び材料品は同じく楠山秀太郎氏其他より取寄せ専心業務に努力した」という。大阪での営業当初は、写真と石版の材料取り扱いが二本柱だったのである。明治30年(1897)、心斎橋通安堂寺町17-19 番地に本店を移し、京都の店は後に紀岩治郎に譲渡することとなった。

 それ以降桑田商会は、大阪を代表する写真材料店へと成長した。明治36年(1903)には、娘婿の石井吉之助をアメリカとヨーロッパに派遣し、欧米のメーカーとの直接取引の道を探った。同年大阪で開催された第五回内国勧業博覧会に際しては、桑田商会は出品人肖像写真用台紙の制作を引き受けたり、会場内外や陳列状況を撮影した写真をアルバムにして大阪市に納めた。

 後に詳しく見るように、明治37年(1904)、桑田正三郎はアマチュア写真家の団体浪華写真倶楽部を創立して、機関紙を発行した。明治39年(1906)、日本乾板株式会社の創立に参加。大正4年(1915)、長男桑田一郎が欧米の旅に出て、同年末帰国した。『桑の若苗』には、一郎の盛大な歓送迎の写真が掲載されている。

 桑田商会の受賞歴としては、明治23年(1890)の第三回内国勧業博覧会、明治28年(1895)の第四回内国勧業博覧会、明治36年の第五回内国勧業博覧会、明治39年の戦捷記念博覧会、明治43年の日英大博覧会に出品し、褒状や有効銀賞、進歩銀賞、名誉銀賞等を受賞している。

 大正15年(1926)、桑田正三郎の古希を記念して浪華写真倶楽部に事業基金200円が寄贈(注23)され、これをもとに桑田正三郎の雅号を冠した「写翁賞」が設定された。

 昭和7年(1932)11月2日、京都で没。享年77歳。

 昭和8年(1933)3月5日、大阪東区平野町仏光寺別院で桑田写翁追悼会が開催され、追悼会の後、綿業会館において関係者による追悼の座談会が開催された。この座談会の記録は翌昭和9年(1934)1月発行の浪華写真倶楽部創立30年記念号に掲載されている。


  注記

(注19) 桑田正三郎『桑の若苗』大正5 年、p.7 (本文に戻る)
(注20) この時の「写真製作引受人」名簿に「朴斎事横田彦兵衛」という名前が筆頭で登場する。『月の鏡』p.21 (本文に戻る)
(注21) 桑田正三郎『月の鏡』p.19 (本文に戻る)
(注22) 「桑田商会大阪開店30 年記念会記事」、桑田正三郎『桑の若苗』p.36 (本文に戻る)
(注23) この時桑田正三郎より関係諸団体へ寄贈された金額の内訳は以下の通り。東京写真師協会、東京写真材料商組合、大阪写真師会、大阪写真材料商へ各500 円、京都写真師組合へ300 円、京都写真材料商組合、神戸写真師会、浪華写真倶楽部へ各200円だった。浪華写真倶楽部だけが決して優遇されたわけではない。 (本文に戻る)


次頁 関西の写真(4) 『月の鏡』

問い合わせ先:関西写真家たちの軌跡100年 展覧会事務局
電話 06-6744-1662  FAX 06-6744-6744  (祥プロダクション内)