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「関西写真家たちの軌跡100年」写真展図録 収録論文

関西の写真  中島徳博

掲載論文の前半を著者の許可を得てwebで公開します

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関西の写真(2)


関 西 の 写 真

中 島 徳 博 

  幕末から明治

 日本の写真の歴史は、嘉永元年(1848)、上野俊之丞(1790−1851)が長崎で、オランダ船からダゲレオタイプ一式を入手したことから始まる。フランスでダゲールの写真に関する特許権が正式に認められ、その技法が公表されたのが1839年であった。当時の日本が幕府による厳しい鎖国令の下にあったことを思えば、この9年という空白は意外に短いものだった。しかし機械は入手できても、それを使いこなすには多大な困難がともない、ようやく薩摩藩で最初の銀板写真(ダゲレオタイプ)の撮影に成功したのは、さらに9年後の安政4年(1857)9月17日のことだった。最初の9年のブランクが短いと感じられるのに対し、この9年の空白は長いように思われる。しかしそれは、写真が立脚している化学的プロセスとその応用を、その基本から学ばねばならなかった先覚者たちの恐るべき情熱と忍耐力の大きさを物語るものだろう。銀板写真は薩摩藩だけでなく、福岡藩の古川俊平(1834−1907)、大垣藩の飯沼慾斉(1782−1865)、松代藩の佐久間象山(1811−1864)、水戸藩の菊池富太郎(1854頃)らによっても研究されていた。

 明治維新によって消滅したこうした各藩による研究から離れ、日本最初の写真師として常に語られるのが、下岡蓮杖(1823−1914)と上野彦馬(1838−1904)である。文政6年(1823)伊豆下田に生れた下岡蓮杖は、エピソードの多い人物で、その写真術習得に関する苦心談は本人自身が様々な形で残している。その談話に基づき、戦前には「下岡蓮杖」という歌舞伎もつくられたぐらいである。しかしその実際の経歴の詳細については研究者をして「確かなことは何もわからない」「詮索するだけ無駄」(斎藤多喜夫)(注3)と嘆息せしめるほど、史実と根拠の乏しい逸話が複雑に入り組んでいる。斎藤は明治24年から大正2年まで各種の新聞、雑誌等に発表された15種類の下岡蓮杖の談話筆記を取り上げ、「談話によって個々の話の前後関係や人物の名前が入れ替わったり食い違ったりしている」ことを具体的に指摘して、蓮杖自身の話の一貫性と信憑性に大きな疑問を提示している。これは私たちに陶芸の世界での「陶工柿右衛門」の有名な説話を思い起こさせる。戦前の尋常小学校の国語教科書でも取り上げられたこの話の原本が、16世紀フランスの陶工ベルナルド・パリッシー(1510−1589)の伝記にあったことは今では有名な話である。歌舞伎の「名工柿右衛門」等によって伝説化された「柿の色」が、まったく根拠の無いものであることを指摘したのは加藤唐九郎(注4)だが、この話自体はなかなかドラマチックに構成された感動的なストーリーに仕上がっている。そして柿右衛門の歌舞伎の初演が大正元年であったことと、下岡蓮杖の最晩年が微妙に重なっていることに注目したい。写真術習得にまつわる苦心談が、蓮杖自身の手やその周囲の人々らによって、何か柿右衛門伝説に似たものへと作り変えられたとしても、何ら不思議はないのである。

 上野彦馬に関しては、明治35年、長崎の『東洋日の出新聞』に連載された「日本写真の起源」に詳しい。彦馬の談話に基づいたこの連載記事は、同じように写真術習得時の苦心談を伝えているが、彦馬の場合は化学者としての基礎がしっかりしていただけに、その話も技術的探究心に裏付けられた堅実な内容となっている。なにしろ彼は文久2年(1862)に出版された名著『舎密局心携』の著者でもあり、明治10年代に逸早く乾板の使用を試みた人物でもあったのである。

 文久2年に横浜と長崎で開業した下岡蓮杖、上野彦馬の影に隠れた感じだが、現在では日本最初の写真師の称号は、江戸の鵜飼玉川(1807−1887)に与えられている。松平春獄の江戸滞在中にその側近が書き残した『御用日記』の中の、文久元年(1861)8月19日の記載に「写真巧者成町人両国鵜飼玉川」を呼び寄せて、翌日福井に旅立つ横井小南の肖像写真を撮らしめたとある。現在、横井小南記念館に保管されている裃姿の小南の写真が、その時のものと推定される。また文久元年に江戸でそれなりの評判を得ていた両国薬研堀の影真堂鵜飼玉川は、文久元年の「大江戸当盛鼻競」に登場する「写真 玉川三次」のことだった。したがって、鵜飼玉川が蓮杖や彦馬に先立って、文久元年には江戸で開業していたことは動かしがたい事実といえよう。

 関西の写真に関しては、創立期に活躍したほとんどの人物が、何らかのつながりで長崎からの人脈にたどりつくことができる。原田栗園は、明治44年の「本邦写真家列伝」(注5)の中で次のように述べている。

「故上野彦馬翁の門下済々多士、就中世に聞えたる人は吉冨氏、内田九一氏、亀谷徳次郎氏、只野藤五郎氏、野口氏、富重利平氏、清川氏、薛信一氏、三苫宗十郎氏等となす。吉冨氏は肥前国佐賀藩の人にして今台湾に在りと聞く、内田九一氏は長崎港銅座薬舗に生れ、明治9年既に故人となる、其略歴載せて写真月報に在り、亀谷徳次郎氏は長府の人にして本(もと)阿部を以て姓とせり、只野藤五郎氏は越前御典医の子、野口氏は詳らかならず、以上5氏は即ち富重利平氏の先輩及び同輩なりと雖も、内田九一氏を除くの外、惜しい哉其伝を詳かにせず」(注6)

 原田が挙げた上野彦馬門下9名の中で、関西の写真に深く関わってくるのは、内田九一と亀谷徳次郎の二人である。

 内田九一に関しては、その最大の恩人であった松本良順(1832−1907)との関係抜きに語ることはできない。松本良順(松本順)は天保3年(1832)江戸に生まれ、安政4年(1857)から文久2年(1862)まで長崎で蘭医学を学び、幕府の奥医師、医学校頭取、海陸軍医総長をつとめた後、明治新政府の下でも初代の陸軍軍医総監をつとめた幕末動乱期の重要人物の一人である。その自伝『蘭疇』(注7)は、この人物の豪快な性格と波乱万丈の時代をよく物語っていて飽きることがない。長崎には当時、吉雄圭斎(1822−1893)という優秀な蘭医がいた。吉雄は出島の出入医師であり、嘉永元年(1848)オランダの医師モンニッキから種痘法を学んだ。しかし当時は誰もそれを信じる人が無く、仕方なく吉雄は自分の親戚の二人の幼児にそれを試みて成功した。当時4歳の九一とその妹菊である。ここで登場する九一こそ後の写真家内田九一(1844−1875)のことであり、吉雄の妻が九一の従姉だったことに端を発するエピソードである(注8)。この吉雄の実験台にされた二人の子供は、両親が早く亡くなり、それぞれ二人の蘭医の下に身を預けることとなった。九一は松本良順に、菊は吉雄圭斎の下に育てられた。松本良順は長崎でオランダの軍医ポンペ(1829−1908)の下で医学を学ぶかたわら、写真にも強い関心を持ち、いくつかの重要な記述を残している。自伝『蘭疇』の中に登場する、安政6年(1859)頃にポンペや前田玄造らに写真の実技を教えた英人写真家とは、スイス人ピエール・ジョセフ・ロシエ(1829−?)であったことが近年明らかにされている。

 当時海軍伝習所で医学を学んでいた前田玄造(1831−1906)は、福岡藩から派遣された医師であり、藩主黒田長溥から写真術の研究も命じられており、この機会に英人写真家から湿板写真の実技を習得したようである。前田の習得したこの魔術のような技法に強い関心を示したのが、松本良順の下で伝習所の手伝いをしていた内田九一少年であった。松本はその頃の内田九一について、次のように述べている。

「親父がコレラで亡くなった時は、九一が13、妹が8歳で、財産はあったが親類で世話をするものが無くって、途方に暮れていたのを見兼ねて、私は九一を引取り、吉雄圭斎は妹を引取って養育した。私は九一を練習所(伝習所)の小使に使っておったが、16の時、金子30両をやって、その使い途を見たが、蘭人の競売で、一と抱えもありそうな箱を二つ買って来た。開けて見たら、薬品が一杯はいっておって、これはみな写真の薬であった。これがそもそも九一が写真術に志す端緒である。」(注9)

 明治の旧幕府の人たちの雑誌『同方会誌』に発表されたこの話は、どこまで信憑性があるか不明だが、少なくとも松本良順と内田九一との関係については示唆するところが大きい。松本は内田にとって、いわば父親代わりの存在だったのである。それゆえ、内田が長崎から関西に出てきたことの最大の理由は、当時将軍家茂の侍医として京都に滞在していた松本良順の存在だった。

「それから私が長崎を去った後、長州征伐で将軍家の御供をして京都に逗留しておった時、或る日丸山に行く道の料理屋で飲んでおると、突然九一がやって来たから、どうして来たと聞いたら、このたび先生は御供で京都にお出でということゆえ、はるばる長崎から来た。途中は写真を写し写し上って来たとのこと。紙写しをする写真師のこれこれいう者が、今度長崎から来たと、松前御老中に話したら、この人も大層こういうことの好きな人ゆえ、幕府に抱えようとのことで、その旨を九一に伝えたところ、一生三十人扶持ぐらいで縛られるのは嫌だということだ。そこで私が大坂で開業したらよいだろうと言って、大坂の石町で写真の店を始め、たいそう流行した。その後九一は東京に出て、浅草の代地に開業し、紙写しをしきりにやって、内田九一の名は今も人の口に残るようになった。これが紙写しの沿革である。」(注10)

 松本良順が将軍家茂らの一行と共に京都に入ったのは、慶応元年(1865)5月のことだった。江戸から東海道を上って行く時、まるで団体旅行のようにはしゃいで従軍していた旗本らの様子を、松本は「その愚その惰、慨嘆極めて抱腹絶倒のこと」と厳しい目で眺めていた。松本良順のこの話は、『幕末百話』の中で、歩兵の服装の変化を語った旧幕軍歩兵指図頭取の次のような記述とも合致する。

「第二の写真は長州征伐の時で、私共大手前は御中軍と称して、将軍警護で、大阪表まで赴きました。大阪表の写真師は、天満橋向の『九一』というがその頃名人でした。紙写し三枚で代価は三分を払ったです。」(注11)

 これによって内田が大阪で開業したのは、慶応元年(1865)、天満橋のすぐ南にある石町で、慶長2年(1866)にはすでに名人の評判を得ていたことが確定できよう。ここで言及されている「紙写し」とは鶏卵紙焼付のことであり、ガラス湿板が多かった当時、内田九一がこの技法で評判を集めていた様子がうかがわれる。その後、内田は横浜、東京に移り、明治の初めには東都随一の写真家として令名を馳せた。松本良順に「一生三十人扶持ぐらいで縛られるのは嫌だ」と言って、幕府に召抱えられることを断った内田は当時21歳、満々たる野心を抱いた青年だった。明治8年(1875)若くして突然その生涯を閉じた内田に関し、後年の松本は夭折の門弟たちについてその思い出を綴ったエッセイの中で次のように書いている。

「内田九一、其八九歳の時父母を亡ふ親戚皆な不善なり吉雄圭斎と相謀り孤児二人を養育して長ずるや予を慕ふて長崎を亡命し来れり、其写真に巧なるを以て大いに是を扶け予か為めに衣食する事数年、維新以来是を扶けて其業を拡張せしめ相謀りて大利益を得るの緒に就くや三十一二にして死せり」(注12)

 内田が大阪を離れた時期については、これまで慶応2年(1866)と言われてきた。『写真新報』の「本邦写真家列伝」の中の、内田九一の項目では次のようになっている。

「氏既に業を卒ゆ、即ち師(筆者注:上野彦馬)を辞して郷関を出で、遠く京阪の間に遊ぶ、時に慶応元年なり、居を大阪船場に構へ、時に出でゝ名勝風景を撮影し、其技量漸く世に現はる、人の勧むるに任せて順慶町に写真業を開く。氏既に天下の趨勢を洞察し、大阪を去て江戸に向はんと欲す、偶々幕府の軍艦『回天号』東上するに会し、便船を請うて江戸に出づ、時に慶応2年なり。内田氏嘗て長崎に在る頃、松本良順(後ちの松本順国手)大村の舎密試験所に在り、依て互に相識る、当時松本良順神田和泉橋通に居を構ふと聞き、即ち往いて松本を訪ひ、暫らく其家に停まる、居ること須臾にして戊辰の乱あり、松本亦家を捨てゝ東北に奔る、内田氏即ち去て横浜に赴く、時に石川某なる者あり、氏の妙技に感じて費を投じ、写真館を設けて其技を振はしむ」(注13)

 また桑田正三郎の『月の鏡』では、内田九一に関して次のように記述されている。

「慶応元年大阪に出でゝ上町鎗屋町に写真を開業し幕士の知遇を受くること多し、翌2年将軍慶喜公江戸に帰還するや先生亦艦に陪して東す、幕臣松本良順氏(後の軍医総監順氏)特に先生を待つ事厚し、乃ち横浜馬車道通に写場を開き次で明治2年東京浅草茅町に支店を設く」(注14)

 慶応2年(1866)慶喜の艦に便乗して江戸へ行くという話は、慶喜が江戸へ下ったのは慶応4年(1868)1月のことなので、史実に合わない。また、内田の大阪での開業地に関しても、早くも順慶町と上町鎗屋町という二つの説が新しく登場している。しかしこれに関しては、すでに見てきたように私たちは天満橋の石町という確証性の高い証言を得ている。この二つの文章に共通しているのは、内田と幕臣松本との親密な結びつきである。江戸に出た内田が、しばらく松本の家に滞在していたことは、松本自身の記述からも明らかである。松本が慶喜から乗馬袴を賜って、東海道を江戸へ向ったのは慶応3年(1867)2月のことだった。そして松本が東北に発った慶応4年(1868)4月以降、内田は横浜に移り、そこで開業することとなった。明治2年(1869)以降、台紙に東京浅草と横浜馬車道の住所がならんで印刷された内田九一撮影の写真が多く残されている。以後の内田は明治5年(1872)の明治天皇の西国・九州巡幸に随行し、その時撮影した写真をアルバムとして残し、さらに明治天皇、皇后、皇太后の肖像写真を撮影するという、写真家としての最高の栄誉を獲得している。

 長崎で上野彦馬の門弟として内田九一とならんで名が挙がっていた亀谷徳次郎(1826−1885)もまた、慶応の初め頃に関西にその足跡を残している。京都の堀内信重(1841−1876)は、代々知恩院の寺徒で山内の警護を職とする家に生れた。知恩院の山門前に、桜餅と茶を提供する店を開いていたが、長崎から来た一人の旅人から写真のデモンストレーションの場にここを貸して欲しいと頼まれた。堀内はこの人物を信用して、茶店のかたわらに仮の暗室を作り、写真の撮影を行わせしめた。以下は『月の鏡』が記述するところの旅人の言である。

「余は長崎の産、亀谷と称す、蘭人に知己あり舶来の奇品数種を携帯す、之れを君の家に陳列し好事の人に頒つを得んか、又写真と云ふものあり、器械を以て緻密に肖像を作製す、君欲せば此境内の絶勝を背景として君の像を作らん、又乞ふものあらば直ちに何人にも斯の技を試みん」(注15)

 この旅人こそ亀谷徳次郎であり、桑田正三郎は「是れ実に京都に於ける写真撮影の嚆矢なり」と書いている。堀内は亀谷から器械と技術を学び、知恩院前に写真館を開き、幕末から明治にかけこの店は大いに繁盛したという。

 同じ頃、丸太町堺町御門前でビードロを扱っていた堀与兵衛(1826−1880)は、禁門の変で店を焼失し、京都の蘭学者辻礼輔に写真を学び、また亀谷について実技を学んで、ついにその技術を習得した。堀は寺町通りに二階建てガラス屋根の写真館を開き、評判を高め、祇園町にも支店を出した。これが幕末の志士たちの写真で有名な堀写真館である。

 京都で堀内信重と堀与兵衛の写真館が開業したのは、慶応元年の頃と思われる。いずれも長崎から出てきた亀谷徳次郎が関わっていたことは興味深い。写真は知識や書物だけからは習得できない技術だったのである。かつて長崎でオランダ人医師ポンペが、書物を参考に取り組んだがうまく行かなかった。松本良順は、これを横から見ていて「豁然大いに悟るを得たり」と書いている。書物からは絶対に学べない実地の技術、実技の大切さを彼は写真から学んだのである。上野彦馬や前田玄造たちにしても、どれほど知識があったにせよ、ロシエの写真撮影の実技から得るところが大きかったはずである。

 内田九一が大阪の天満橋近くの石町で写真店を開いた慶応元年(1865)には、守田来三(1830−1889)もまた高麗橋で店を開いた。もともと守田は中津藩の藩士で、長崎奉行に仕えていた文久2年(1862)に上野彦馬と知り合い、上野から写真を学んでいた。慶応3年(1867)の兵庫開港とともに、大阪から神戸に移り、二ツ家西本町(内海岸通)に店を開いた。明治2年(1869)大阪に戻り、南地五花街のひとつ阪町に店を開き大いに繁盛した。その名を慕って教えを乞うた弟子たちも多く、大阪写真界の始祖ともいえる大きな存在だった。

 神戸では市田左右太(1843−1896)の名を抜かすことはできない。市田は但馬の出石に生れ、万延元年(1860)京阪の地に出て、慶応4年(1868)写真術を習得し京都で開業した。明治3年(1870)神戸の元町3丁目に写真店を開き、大いに繁盛して「関西第一の大家」としての令名を高めた。

 『月の鏡』には、明治4年(1871)大阪で発行されたという全国写真師見立番付が掲載されている。しかしこの番付の「明治四申正月」という日付は間違っている。申年なら「明治五」のはずだし、「明治四」をとるなら「明治四未正月」とならねばならない。私は当時の人たちの感覚としては年数よりも、干支の方が優先されるはずなので、「明治五申正月」の書き間違いと推定している。

 この番付の行司には、蓮杖(下岡蓮杖)、横山(横山松三郎)の名があり、勧進元には上野(上野彦馬)、差添人には内田(内田九一)の名が登場する。当時の有名写真家の名前を挙げ、一応全国版という体裁をとってはいるが、以下に見るように実際は関西の写真家たちの番付である。

東ノ方 

大関

関脇

小結

前頭

 守田(大阪)

 中川(同)

 中村(同)

 市田(神戸)

 吉川(大阪)

 片山(神戸)

    西ノ方 

大関

関脇

小結

前頭

 上野(神戸)

 亀谷(西京)

 吉村(大阪)

 宮津(同)

 横田(神戸)

 井上(九州)


    

中頭

関脇

小結

前頭

 葛城(大阪)

 井森(西京)

 ○玄屋(大阪)

 疋田(同)

 澤田(同)

 中井(同)

 奥田(同)

 川○(同)

        

中頭

関脇

小結

前頭

 堀内(西京)

 緒方(神戸)

 牧野(同)

 人見(同)

 酒井(同)

 佐々木(西京)

 花淵(大阪)

 田内(同)

 上位二段までを列記してみたが、京都(西京)の堀與兵衛は、頭取の項目に「大與」という屋号で登場する。

 この番付は、明治4(5)年(1871/2)頃の関西の写真家たちの人気を反映したものと見なすことができよう。番付の筆頭に位置する東の大関が大阪の守田来三であることには納得がゆくが、西の大関には上野彦馬の弟上野幸馬(1841−1896)が登場することには驚かされる。上野幸馬は明治の初め神戸に来て、福原遊郭に店を開いた。コロジオンの調剤に巧みであり、多くの同業者たちがその秘伝を聞きに来たという。明治7年(1874)大阪神戸間の鉄道開設のため、遊郭が湊川付近に移転するのに際し店を閉じ、東京へ向けての旅に出た。途中、各地の同業者たちに技術の指導をおこない、いたるところで大歓迎されたという。先に見た京都の亀谷徳次郎が、西の関脇で登場することのうちに、この人物の影響の大きさを見て取ることができよう。亀谷は旧姓を阿部といい、長府の生れである。長崎で手代役を務め、上野彦馬から写真を学び、文久2年(1862)に長崎で開業した。慶応元年頃に京都に出てきたものと思われる。慶応2年8月9日の『新稿一橋徳川家記』(注16)に、京都二条堀川東入町横田栄五郎定職人阿部寿八郎を写真師として抱え入れたとあるが、「本邦写真家列伝」の原田栗園は、この阿部寿八郎を亀谷徳次郎のことと見なしている。その若林耕化の項目に次のような記載がある。大阪の京町堀3丁目で薬の店を開くかたわら、写真材料品も扱っていた若林耕化が17歳前後の時期(即ち慶応2年前後)、「偶々一ツ橋慶喜公の使者阿部寿八郎氏大阪に来る」機会に阿部(亀谷)と知り合い、若林は阿部(亀谷)から写真術を学んだというのである。(注17)おそらく原田栗園は目を通したこともなかったはずの文書(一橋徳川家記)の記載と、この記述が図らずも一致するのである。以上から言える確実なことは、亀谷徳次郎は阿部寿八郎の名前で、慶応2年8月からの一時期徳川慶喜公お抱えの写真師であったということである。

 亀谷(阿部)が徳川慶喜の下で働いていた期間は不明だが、召抱えられた直後、慶喜は徳川宗家を継ぎ、12月5日には第15代将軍となった。したがって大阪で若林が亀谷(阿部)と出会ったのも慶応2年8月から12月の間である。慶応3年(1867)5月14日、将軍慶喜が松平春獄、島津久光、伊達宗城、山内容堂を京都に呼んで話し合いの場を持った時、その労をねぎらうため、慶喜は写真鏡(カメラ)を持ち出してこの四人の写真を撮らせている。伊達家に残る写真の包み紙には、宗城の自筆でこの時の写真の撮影者が横田彦兵衛と明記されていた。(注18)この横田彦兵衛こそ、後に10代の桑田正三郎(当時は小山正三郎)にはじめて写真術を教えてくれた横田朴斎その人に他ならなかった。


  注記

(注3) 斎藤多喜夫『幕末明治 横浜写真館物語』吉川弘文館、平成16年4月、p.112 (本文に戻る)
(注4) 加藤唐九郎「『陶工柿右衛門』の謎」『やきもの随筆』講談社文芸文庫、平成9年3月 (本文に戻る)
(注5) 『写真新報』148号(明治44年1月)から連載を開始、162号(明治45年3月)まで14回続いた。取り上げた写真家は以下の通り。<1>下岡蓮杖、<2>上野彦馬、<3>清水東谷、<4>富重利平、<5>横山松三郎、<6>古川俊平、<7>鈴木真一、<8>武林盛一、江崎礼二、<9>葛城思風、若林耕花、<10>中島精一、加藤正吉、<11>北庭筑波、田本研造、<12>長谷川保定、小川一真、工藤孝、(丸木利陽)、深沢要橘、宮内幸太郎、<13>平村徳兵衛、白崎民治、大武丈夫、小川_三郎、<14>金丸源三、玉村康三郎、内田九一、徳田孝吉、和田一郎 (本文に戻る)
(注6) 原田栗園「本邦写真家列伝富重利平氏」『写真新報』151号(明治44年4月) (本文に戻る)
(注7) 『松本順自伝・長与専斎自伝』東洋文庫386、平凡社、昭和55年9月に収録の「蘭疇自伝」による。原本は明治35年、松本の古希の祝賀会に際し参会者に配布されたもの。「蘭疇自伝」は、『東京医事新誌』に明治39年から松本の死によって中断される翌年まで連載された。 (本文に戻る)
(注8) 鈴木要吾『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』大空社、平成6年2月に収録の「吉雄圭斎手記」による。以下の部分参照。「嘉永申元年6月14日モンニッキ氏牛痘苗ヲ齎シ来朝スルヤ(中略)此際モンニッキ氏ハ伝授ノ為メ自ラ手ヲ下シ和蘭通詞加福喜十郎ノ男加福喜一ニ殖接セシガ右腕只一顆ヲ発セシノミ是寔ニ本朝種痘法伝習ノ濫觴ナリ、此時余ハ其看護ノ為メニ三夜殆ド寝ズ、加之東西ニ奔走其験ヲ説ケドモ未ダ更ニ信ズル者ナク同24日親戚ナル内田一九(ママ)及ビ其妹菊ニ該法ヲ施セシ処復良ク感殖シタリ(後略)」 (本文に戻る)
(注9) 柴田宵曲編『幕末の武家』青蛙房、昭和40年5月に収録の「幕末の話−九−松本蘭疇」pp.214-215 による。これはもともと明治29年から旧幕府関係者の手によって発行された『同方会誌』に掲載された話の引用。「当時、旧幕府史談会なるものがあり、上野東照宮社務所を会場として連月催された」この時の筆記が『旧幕府』、『同方会誌』に掲載されたものである。大阪の「石町(こくまち)」という地名は、江戸時代からのものであるがあまり一般には知られていない。松本良順の話としての信憑性もこの「こくまち」が決め手になるのではなかろうか。 (本文に戻る)
(注10) 前掲書、p.215 (本文に戻る)
(注11) 篠田鉱造『幕末百話』岩波文庫、平成8年、p.150 (本文に戻る)
(注12) 鈴木要吾『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』に収録の「蘭疇随筆」の中の「惜しむべき門生の人達」。鈴木要吾前掲書、p.269 (本文に戻る)
(注13) 原田栗園「本邦写真家列伝−故内田九一氏」『写真新報』162号(明治45年3月) (本文に戻る)
(注14) 桑田正三郎「故内田九一先生」『月の鏡』大正5年、p.7 (本文に戻る)
(注15) 桑田正三郎「故堀内信重先生」前掲書、p.31。このような講談めいた話をここに取り上げるのは、亀谷徳次郎が長崎から京都に出てきた理由が不明だからである。亀谷は慶応2年8月、京都で徳川慶喜に写真師として召抱えられた阿部寿八郎と同じ人物と推定される。桑田正三郎も、この人物を亀谷と書いたり、阿部と書いたりしているが、いずれも同一人物のことである。 (本文に戻る)
(注16) 辻達也編『新稿一橋徳川家記』続群書類従完成会、昭和58年 (本文に戻る)
(注17) 「本邦写真家列伝(其九)」(『写真新報』157号)の若林耕花の項目で、原田栗園がこのようなことを書いているのは、原田の取材の方法から、これは若林耕花本人からの直接の聞き書きによるものと思われる。同じ号で取り上げた葛城思風の記事が、守田昌司からのクレームにより、翌月号で訂正されている事情からも推定できる。そうでなければ、「阿部寿八郎」の名がここで突然登場する理由がわからない。 (本文に戻る)
(注18) 慶喜と写真については、展覧会図録『将軍のフォトグラフィー』(戸定歴史館、平成4年)の中の斉藤洋一「展覧会ノート」が詳しい。慶喜に関する記述も、主に斉藤の「展覧会ノート」によった。慶応3年5月14日撮影の四候写真も、撮影者には当然阿部寿八郎(亀谷徳次郎)の名が予測されたが、かつての主家から横田彦兵衛が出てきた。横田家は、献上品の取り扱いを一手に仕切っていた家柄であり、将軍家とのつながりも深かった。 (本文に戻る)


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