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「関西写真家たちの軌跡100年」写真展図録 収録論文

関西の写真  中島徳博

掲載論文の前半を著者の許可を得てwebで公開します

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関西の写真(7)


関 西 の 写 真

中 島 徳 博 

  米谷紅浪

 初期の『写真界』のユニークな企画のひとつに、「写真懇親会」なるものがある。会員の顔写真と、雅号、身分、職業、住所、生年月日、写真を始めた年月、最初購入の器械、写真を始めた動機、指導者、趣味及び理想、等々をアンケート形式で記入したものである。いわば倶楽部会員たち相互の自己紹介の欄である。この『写真界』明治42年8月号の写真懇親会に、米谷紅浪が登場する。米谷は当時まだ19歳の美少年であった。「私は米谷富三」と名乗り、前年の10月に撮影した、腕を組んだ和服姿のセルフ・ポートレイトを掲載した。生年月日は明治22年12月20日、生れは「生ッ粋大阪つ子」として、写真を始めた時期は、去年(明治41年)の2月だった。最初の撮影については、「雪のちらつく寒い寒い朝、阪神電車の佃付近で3枚計り撮った。結果は勿論零。蓋し非常なる露出過度であった。」と書いている。「現今の趣味及将来の理想」の欄に書かれた次の文章は、驚くほど的確に自分の将来を予告していた。

「何分遣り出してから僅々一年半と云ふ浅い契りだから趣味だの理想だのと云ふ物はないが只何となく僕はカメラの人となる可く生れて来た様な気味がしてならぬ此の良縁勿論僕は友白髪の末まで添遂げるつもりだ」(注40)

 まさに米谷は、「カメラの人」となるべく生れた人物だった。

 自写の肖像写真の下に印刷されたローマ字の名前は「Mr. T. Yonetani」である。ここで米谷は「こめたに」なのか「よねたに」なのかという、混乱が生じてくる。結論から先に述べると、米谷は当初は生家の呼び方「よねたに」を名乗っていたが、途中から「こめたに」と名乗るようになったということである。

 明治の大阪の人物を取り上げた便利な辞典として『大阪現代人名辞書』(文明社、大正2年)がある。ここに収録されている「米谷重之助」が、米谷紅浪の父親である。慶応2年(1866)に生れた重之助は、明治39年に大阪株式取引所仲買人となった。家族には母その(1836生)、妻せい(1872生)、二女もと子(1894生)、三女秀子(1900生)、三男勝(1904生)、四女吉子(1908生)がある。長女ちゑ(1888生)は河野幾二郎に嫁ぎ、二男豊(1897生)は久納藤兵衛の養子となった。この米谷重之助(よねたにしげのすけ)という人物が米谷紅浪の父親であることが推定できたのは、久納家に養子にいった二男の豊を通してである。

 ほとんど身内のことに触れない米谷紅浪が、大正10年5月の『写真界』に、第三高等学校に入学する弟を送って一緒に京都へ行った話を書いていた(注41)。その時、岡崎の図書館でたまたま見た京都の若い人たちの写真展に共感するところがあり、そのことを記した文章であった。春の京都のイメージと若い人たちの新鮮な写真展の組み合わせが面白かったが、同時に米谷紅浪のこの弟に寄せる愛情が印象に残っていた。大正13年12月の『写真界』は、米谷紅浪の弟久納豊の死を久納の写真と共に報じていた。米谷そっくりの顔立ちをした学生服を着た凛々しい若者の写真は、私にすぐ先述の京都の記事を思い起こさせた。「久納豊氏の訃」と題し、写真の横には次のように書かれている。「浪華写真倶楽部員久納豊氏は胃腸の疾患のため回生病院に入院加療中であったが遂に効なく逝去せられた、氏は米谷紅浪氏の舎弟で出でゝ久納字を嗣いだ人、新進のアマチュアーとして芸術写真の造詣を積んで居ったが、享年二十六、前途多望の春秋を残されたのは実に遺憾である。」

 この記事から久納豊が浪華写真倶楽部に属し(注42)、兄と同じように写真に関心を抱いていたことがわかる。米谷紅浪も写真について共に語ることができたこの8歳下の弟に、大きな期待と愛情を寄せていたであろうことは想像に難くない。それにしても奇妙なのは『大阪現代人名辞書』の米谷重之助の項目に、三人の息子と四人の娘のことは書かれているが、肝心の長男富三(米谷紅浪)について何も触れていないことである。

 『写真界』に掲載された米谷紅浪の最初の作品は、明治43年2月号の《出勤》であった。この頃の『写真界』には、英文レジュメも掲載されているが、そこでの米谷紅浪の表記はT. Yonetani となっている。以後、ほとんど全ての表記はT. Yonetani であり、途中1 回だけT. Kometani と表記されが次の号からはまたT. Yonetani に戻されていた(注43)

 昭和3年2月大阪の朝日会館で開催された「浪華写真倶楽部25周年記念写真展」の目録では、会員名が50音順に列記されており、ここで「こめたに」という呼び方が確認できる。以上を総合すると、明治42年、浪華写真倶楽部に入会した頃の米谷紅浪は生家の呼び方である「よねたに」と名乗っていたが、途中から「こめたに」に変わった。その理由や時期は不明であるが、昭和初期頃からのほとんどの印刷物では「こめたに」となっている。

 米谷紅浪の名前が浪華写真倶楽部の例会に登場するのは、明治42年(1909)になってからのことである。明治42年度の例会審査得点集計表は次のようになっていた。

第1等 106点  薄 雷山
第2等 94点  勝 汀舟
第3等 52点  加藤百洲
第4等 34点  長谷川呉山
第5等 26点  中島蕉雨
第6等 18点  谷川淡水、田中梅雪
第7等 16点  山中碧水
第8等 12点  中岡南甌、大西素洲
第9等 8点  横山錦渓
第10等 6点  福島正吉、宗得蕪湖、安田善次郎、大森祥雲、尾崎僑風、米谷紅浪

 この集計表が示すように、この時の米谷紅浪は、まさに末席を汚す存在だった。しかし明治43年以降、米谷紅浪の写真の腕の進展にはめざましいものがある。明治43年3月25日から4月24日にかけ大阪博物場で開催された浪華写真倶楽部第5回展覧会では、米谷紅浪の《入津》が優等賞、《労働》が互選による銅メダルを獲得した。また明治44年の『写真界』誌上では、一年を通して毎号のように米谷紅浪の作品が誌面を飾った。さらに、明治44年4月22日から5月19日にかけて上野竹の台陳列館で開催された東京写真研究会第2回展覧会では米谷の《里》がただ1点、大阪から二等賞に入賞した。ちなみにこの時の研展の審査員は和田英作、加藤精一、黒田清輝、久野轍輔、宮内幸太郎のそうそうたる顔ぶれだった。この頃、『写真界』で競うように顔を出していた作家として、梶原啓文と横山錦渓の名が挙げられる。

 そして明治44年度の得点累計表では、上位5人の名が次のようになっていた。

第1位  1468  日比霞山
第2位  1432点  米谷紅浪
第3位 1154点  青木紫嶺
第4位 1000点  黒田桃渓
第5位 944点  梶原啓文

 また、明治45年1月14日在阪新聞社の美術担当3氏、すなわち赤松鱗作(大阪朝日)、広瀬勝平(大阪毎日)、小笠原豊涯(大阪時事新報)に審査を委嘱した競技会では、1等が宗得蕪湖、2等が米谷紅浪、3等が梶原啓文だった。

 明治天皇歿後、践祚の行われた直後の『写真界』9月号に、次のような記事が登場した。

「過般大阪三越呉服店楼上にて催されたる洋画展覧会の席にて浪華写真倶楽部員なる宗得蕪湖、横山錦渓、森長瓢、吉田友芳、米谷紅浪、梶原啓文の諸子及び三越写真部主任若林春江の七氏は写真術全般に亘りて各自の嗜好に従ひ、夫々特殊の研究を試み時々会合して其薀蓄を闘はさんとの申合をなし、恰も七人七色、写真に因縁あるスペクトラムに擬して天弓会(天弓は虹也、又帝弓ともいふと白虎通に見ゆ)と名け、会日も二二(にじ)の毎月22日を定日とする事に決したりといふ、尚同会員諸氏の研究の結果は時々本誌に掲載して、異彩を放つに至るべし。」(注44)

 これが天弓会結成を報じた最初の記事であった。ここに集ったメンバーたちは、若林を除きいずれも浪華写真倶楽部の新進気鋭の写真家たちであり、以後大正時代の浪華写真倶楽部は、この天弓会のメンバーたちを核として展開してゆくこととなる。『写真界』の同じ号には、8月21日の葛城思風(1852−1912)の死と8月27日の田村景美(1844−1912)の死が報じられていた。明治の大阪の写真師を代表する二大巨頭の死は、時代がまさに明治から大正に変わった時期だけに、ひとつの時代が去ったという感慨を多くの関係者に与えたのだった。

 大正7年頃から9年頃にかけての一時期は、米谷紅浪が写真から遠ざかった空白期である。皮肉なことに、『写真界』の連載「大家訪問記」が米谷紅浪を取り上げたのは、ちょうどこの頃だった。

 大正7年10月8日に、米谷の勤務先の浪速紡織の事務所で行われたインタヴューの中で、彼は次のように語っている。

「此頃はヅボラをして倶楽部の例会にもあまり出掛けませんが、相変らず盛んでしょう、然し年々の金牌も大抵行き渡ったようですから、何か変った方法を設ければどうでしょう(中略)マアこんな事は大した問題ではありませんが、兎に角撮影会と印画の互選以外に高級的な研究を倶楽部でやる方法などはどうでしょう(中略)倶楽部でも古田稲村君以後久しく新らしい熱心家を見受けないやうですが、新らしい人の奮発は大に刺激となり、立派な作品が増ゆれば例会などでも其を中心に批評も盛んになる訳でねー」(注45)

 浪華写真倶楽部に関しても何か他人事のようになげやりな感じのする発言には、当時の米谷がよほど仕事に忙殺されていたことをうかがわせる。しかし、最後の部分ではこのように語っていた。

「兎に角高い立場を目途としてお互いに研究してゆけば芸術写真の前途は頗る広いものと思ひます、芸術写真の為めに先輩諸君の努力は素より願はしい所ですが、同時に新らしい娯楽家の輩出して斯界に刺激を与へられることは更に甚だ望ましいことです」

 森一兵(長瓢)が、『写真界』の「忙中閑記」の中で、同誌に載った最近の印画の低調さを痛烈に批判したのもこの頃のことだった。この時期は、浪華写真倶楽部全体の低迷期といってよいだろう。

 しかし米谷紅浪の復帰は、この作家らしくドラマチックなかたちでなされた。大正10年(1921)1月11日から13日まで、米谷紅浪は十合呉服店4階で個展を開催した。写真の世界では、これが関西で最初の「個展」だった。ゴム印画の半切を主体とした30点の作品群は、会場を訪れた人々に圧倒的な印象を与えたようである。億川兆山は、「驚嘆すべき氏の努力と芸術的良心のひらめき」に感動して、25点の作品に対してそれぞれ一首ずつ和歌を詠んでいった(注46)

 この年の10月の『写真界』に発表された「批評と人格」は、批評家としての米谷紅浪の真価を示した最初の力のこもった論文であった。

 米谷はまず、独断的で偏狭的な言論が多くの作家たちを傷つけているとして、「芸術と言ふものは憎悪からは決して生れない、唯々愛のみが久遠性を生む慈しみの母」であると宣言する。そして米谷は批評には二つの行き方があるとして、次のように定義する。第一は、「自己といふものをすっかり皆の前に曝け出して、大胆に、真っ正直に自己其ものから発足」する行き方である。これは比較的容易であるかわりに、自己の修養鞭撻が欠かせない。要は自己というものの大小が批評家としての価値を左右するのである。第二は、「自己といふものを全然しまって置いて――失っては不可ない、――大きな客観を掴む」やり方である。この行き方は中々大変で、これは天才の仕事であり、修養ばかりでは達成できない。米谷が、自分を第一の道に位置づけていることは言うまでもない。

 そして「批評家は理解力に秀でゝゐなければならない、眼で見るといふ丈けでなしに、本的に心の奥底まで透徹する様な鋭い観察力に富んで居なければならない」のである。また「作家の直感に自己を失はずして共鳴を感じなければならない、更にそれ等の凡てを統一する至高なる芸術的の人格がなければならない」のである。それゆえ米谷は、「此人格の反映が凡ての批評家の資格を限定する。人格を放れて批評家の芸術的存在はあり得ない」とするのだった。

 写真の世界では、「批評家の権威は言ふまでもなく、其人の芸術観と、其人の作家である場合には其人の作品の価値から判断を下さなければならない」のである。芸術観も示さない、作品も示さない、単なる個性が何を言っても無意味である。
最後に米谷は、実作家と批評家の対立を、文展の審査の場における岩村透の話を引用してこの文章を終える。作家たちから実制作の経験の無いことで批判された岩村は、自分は確かに作家ではない、しかしそのかわりに作家以上の幅広い芸術体験と知識を習得したのだと言い切ったのである。

 米谷紅浪のこの「批評と人格」は、『写真界』誌上で福森白洋と森一兵の一連の論争を生み出すきっかけとなった文章である。米谷のこの文章に感銘した福森白洋は、半年後の『写真界』に発表した「閑人閑話」で気韻生動論とピグメント芸術論を展開し(大正11年4月号)、それに対する森一兵の反論(大正11年6月号)、さらに福森の反論(大正11年7月号)へと続いたのである。ここではその内容を詳しく紹介できないが、浪華写真倶楽部を代表する論客たちの、相手に対する敬意と節度をわきまえた論争は十分読み応えのある見事なものだった。

 浪華写真倶楽部の展覧会の審査員が、梶原啓文、横山錦渓、米谷紅浪の三人に定着して行くのも大正10年の第10回展覧会からのことであった。


  注記

(注40) 『写真界』第4巻第8号(明治42年8月)p.53 (本文に戻る)
(注41) 米谷紅浪「京の若い作家の話」『写真界』第16巻第5号(大正10年5月) (本文に戻る)
(注42) 久納豊は、大正10年の浪華写真倶楽部第10回展覧会に《暮近し》(ブロマイド四切)、大正11年の同第11回展覧会に《風薫る》(ブロマイド四切)を出品していた。第12回、第13回展には不出品。 (本文に戻る)
(注43) ”Mr. T. Kometani”の表記のあるのは、『写真界』第10巻第3号(大正4年3月)のみである。 (本文に戻る)
(注44) 『写真界』第7巻第12号(大正元年9月)p.17 (本文に戻る)
(注45) 「大家訪問記(24)米谷紅浪君」『写真界』第13巻第10号(大正7年10月)p.18 (本文に戻る)
(注46) 億川摂三(兆山)は、和歌と写真の趣味で知られた医師。明治11年5月26日、有馬郡名塩に生まれ、大阪府立医学校を卒業した後、東京帝国大学医学部で学ぶ。『写真界』にも、「歌評」という和歌による作品批評を寄せていた。米谷の個展会場を訪れた億川は、数多くの力作に接し「通り一遍に看過する事のあまりに無礼なるを思い」、3時間かけて手帳に和歌を書きつけていったという。写真界初のこの個展は、大正10年の写真界回顧において「米谷紅浪、小野隆太郎氏の個人展観が斯界に於ける個人展観の嚆矢として意義ある権威を示した」(華水)と高く評価された。 (本文に戻る)


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