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「関西写真家たちの軌跡100年」写真展図録 収録論文

関西の写真  中島徳博

掲載論文の前半を著者の許可を得てwebで公開します

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関西の写真(8)


関 西 の 写 真

中 島 徳 博 

  安井仲治

 『写真界』は、大正11年10月号からその内容を一変して新に生まれ変わった。その新装なった雑誌は、森一兵の「新装の写真界の冒頭に」と題された次のような言葉で始まっている。

「死したるもの永遠によみがへざるも、眠りたるものは當さに覚めねばならぬ、我が『写真界』の新装は即ち眠りたるものゝ覚醒である。」(注47)

 森はここ3年間ほどの『写真界』が、時代に取り残されてきたことを指摘する。これは「原理や論説はドウでもよい、万事は実地が肝心だといふ、大阪気質の発露」でもあった。しかし倶楽部の内部からこれではいけないという新しい動きが生じ、そのきざしの明確なかたちが、大正10年の展覧会であったとする。そして、大阪の写真界が「光画製作の基本たる写真術を以て、理化学的研究から出発して、科学的に取扱って行く」という基本的立場を堅持することの重要性を主張した。それはかつての浪華写真倶楽部が、「十数年前、始めて空気遠近法の描写を唱導して、所謂朦朧写真の為めに警鐘を打ち鳴らし、写真印画の製作に一新時期を画したる如き、吾人同人は革新の急先鋒であった」からでもある。

 森一兵のこの文章に続いて、米谷紅浪の「光画の傾向を論ず」と梶原啓文の「『写真界』の今昔」、再び森の「写真の芸術価値論」、さらに福森白洋の「ハーモンド氏写真構図論」と続く論説は、鋭い問題意識と高い見識に貫かれた内容豊かなものであった。特に森一兵の「写真の芸術価値論」は、時事新報に発表された洋画家金山平三の「写真は行き詰まった」という論文を批判したものである(注48)。森と金山が論じている、「見たままの自然」をいかに再現するかという問題は、つきつめてゆくとリアリティとは何かという究極の問いに突き進む性質のものだった。

 装いを新たにした『写真界』大正11年10月号は、このように充実した内容で再出発した。だが誰も気づかなかった真の革新の種は、その奥付のページにひっそりと印刷された次の2行の中にあった。

「左の通り新会員御紹介致します
東区平野町2丁目 娜迦璽    安井仲治君(福森白洋君紹介)」

 安井仲治(1903−1942)の『写真界』へのデビューは、実はその前月、大正11年9月号でなされており、その登場もまた決して突然のことではなかった。その関連した事項を私たちは随所に指摘することができるのである。

 『写真界』大正10年7月号の会報の欄に、青潮倶楽部の創立が報じられている。事務所を淡路町4丁目に置き、浪華写真倶楽部の吉田友芳を顧問格にすえたこの小さな集まりは、次のような規約を掲げていた。

「本倶楽部は青潮写真倶楽部と申します。
本倶楽部は円満な写真の趣味の発達向上を期した人々の集りであります。
本倶楽部々員には誰でも加入する事が出来ます。
本倶楽部々員の提出印画はヴェスト形より中板形迄と致します。
本倶楽部は毎月一回宛撮影会を第一日曜日に互選会を10日に開き優秀印画は斯界の大家吉田友芳氏の批評を頂いて機関誌『青潮』へ掲載致します。
機関誌『青潮』は隔月一回発行いたしまして印画の外有益な記事を掲載し部員に配布するもので御座います。(以下略)」
(注49)

 安井は、この年の3月に大阪明星商業学校を卒業、友人たちと回覧同人誌『AMITIE』を発行していた。平野町にあった安井の店と青潮倶楽部の事務所はすぐ近くであり、その関係から気軽に足を運べたのだろう。翌大正11年1月、安井はこの青潮倶楽部に入会した。『写真界』大正11年4月号には、梶原啓文の記事で、青潮倶楽部の機関誌『青潮』を吉田友芳の家でたまたま貰ってきたが、「創立間もなくこれだけの機関雑誌が生まれ出でた」ことに感心したことが記されている。この時、梶原が見たのは『青潮』第2巻第2号(大正11年4月)だろう。

 大正11年3月10日から7月31日まで、上野で平和記念東京博覧会が開催された。この春、安井は両親と共に東京へ旅行して、この博覧会場を訪れている。安井の浪華写真倶楽部へのデビュー作となった《分離派の建築と其周囲》は、この時撮影した写真だった。対象となった建物は、不忍池に面した第二会場の中の、堀口捨己設計による機械、動力館である。当時の絵葉書から推察すると、安井は機械、動力館から住友館、音楽堂に向う道に沿ってこの写真を撮影したものと思われる。この道の右手がゆるやかなスロープを持った遊歩道になっており、その坂道の上の方から見下ろすかたちで撮影されたものだろう。建物の手前の柳の木は、絵葉書にもはっきりと写っている。

 大阪毎日新聞社から『サンデー毎日』が創刊されたのは、ちょうど同じ頃であった。その創刊号4月2日号の表紙を飾ったのが、北尾鐐之助撮影の「平和博覧会と上野広小路の賑ひ」という写真だった。上野の松阪屋の屋上から、博覧会場を俯瞰したものである。コメントには「平和博覧会開会中における東京上野広小路の賑ひを松阪屋呉服店の高塔から撮影したもので、正面に見える白い並線は装飾柱、左手第二会場平和塔から台湾館などが見える」とある。しかしこの写真に写っているのは、寛永寺の五重塔を背景に、平和塔がひときわ大きくそびえ、その左手に北海道館、満蒙館、朝鮮館の建築群が確認できるだけで、朝鮮館の横の台湾館までは確認しがたい。

 北尾鐐之助のこの写真は、博覧会に行く人、帰る人で賑わう上野広小路の電車道をねらったもので、その力強い対角線の構図が都市の生活の圧倒的エネルギーによく対応していた。『サンデー毎日』創刊号は、まさにこの時代の熱気を伝えようとする、最先端のメディアとして出発したのであった。

 安井仲治が大阪で発行されたこの雑誌を見ていたことは間違いないだろう。そして、かなり意識的に会場内でカメラ・アングルを探している最中に出会ったのが、堀口捨己の分離派的デザインを駆使した機械館、動力館であった。スロープの上から、道行く人々を俯瞰するかたちでとらえた安井の《分離派の建築と其周囲》は、その題名が示すとおり建築と通行する人々を一体としてとらえたものだった。春の日の午後、建築の持つダイナミックな力強いリズムと、その周囲の人々の陽炎のような姿が渾然一体となって、架空の世界としての「都市のイメージ」を作り上げている。手前の枝を垂れている一本の柳の木の存在が、この情景に博覧会場というよりは、どこか知らない町の一角という日常性を付与しているのであった。

 大正11年の大阪の写真界を回顧して、福森白洋は次のように書いている。

「4月には大丸にて写真芸術社が大阪に於てその最初の展覧会を開いた、この関西写真界に非常なる衝動刺戟を与へ、この会以後は各倶楽部の月並例会及び展覧会等に於て『光とその諧調』を高唱したる画を見受けるやうになり関西写真界の画風を一変した」(注50)

 それは前年大正10年6月に中央公会堂で開催された、研展(東京写真研究会展)の大阪での最初の展覧会とならぶ衝撃を関西の写真界に与えた。大正11年6月18日から22日まで、高麗橋の三越呉服店で写真芸術社の2回目の展覧会が開催された。福原信三の《巴里の印象》外15点、福原露草の《花見小路》外7点を含むこの展観は、前回のような評判は呼ばなかった。その1ヵ月後の7月12日から17日にかけて、同じ高麗橋三越で開催された浪華写真倶楽部第11回展覧会に、安井は《分離派の建築と其周囲》を出品して、第二部(会員外作品)で入選を果たしたのだった。この作品は『写真界』9月号に掲載され、関係者の間に安井娜迦璽という名前を印象付けることとなった。そして安井が浪華写真倶楽部の新会員として告知されたのは、翌月の新装なった『写真界』10月号の最後のページの片隅だったのである。

 大正11年11月11日から13日にかけて、大阪朝日新聞社楼上にて、天弓会の展覧会が開催された。天弓会としては、大正元年の結成以来最初の展覧会であるが、同人には創立のメンバーの他に、西井蕪山、梅阪鶯里、福森白洋が新に加わった。この展覧会には、同人以外の8人の作家たちも推薦出品として参加し(注51)、山崎益蔵の《其夜の印象》、島村逢江の《八月の午後4時》等が注目された。

 大正12年6月、大阪朝日新聞社楼上で研展の大阪での2回目の展覧会が開催された。会期中の6月3日夜、今橋ホテルで秋山轍輔ら研展の中核メンバーと関西の写真関係者たちとの懇親会が開催された。

 7月9日から14日にかけて、高麗橋三越で開催された浪華写真倶楽部第12回展覧会に、安井はブロムオイル四切の《蒸暑き日》を出品した。同展覧会で話題を集めたのは、先述したように梅阪鶯里と福森白洋の作品であった。

 6月の大阪朝日新聞社楼上での研展と競うように、8月11日から14日まで、大阪毎日新聞社3階で写真芸術社の展覧会が開催された。億川兆山は福原信三の作品に対して、「今度の御作では『古池や蛙飛び込む水の音』と云ふやうな玄妙枯淡の作品が多く、我等の如き現実主義者を随喜渇仰せしむる物が少い」と評した(注52)

 研展や写真芸術社の展覧会を通して、東西の写真関係者の交流がひとつのピークに達した時、それらを一気に吹き飛ばすような事件が、大正12年9月1日に勃発した関東大地震であった。

 大正13年4月に大阪朝日新聞社楼上で、天弓会の第2回目の展覧会が開催された。今回は同人の他に、野島煕正、長谷川保定、石田喜一郎、大橋松太郎、松浦幸陽、榊原青葉、日高長太郎など東京、名古屋の作家も客員として参加した。森一兵は名古屋からこの展覧会を見に駆けつけ、「意外にも質と量とに於てかなり充実してゐる」とその印象を述べている。しかし、森は前年は絶賛した梅阪鶯里と福森白洋の作品にも何かもの足りないものを感じていた。それに対し、野島煕正の作品からは「実に深刻な印象を頭のテッペンまで突きつけられ」、「ゴムのテクニックに於ても、当今は此の人の右に出る人は少ない」と絶賛していた。

 大正13年7月に高麗橋三越で開催された浪華写真倶楽部第13回展覧会に、安井仲治は《Deck man》、《煙管を持てる肖像》、《晩春整壺図》の半切のブロムオイル3点を出品した。それは安井の写真のテクニックが着実に進展していることを物語っていた。

 大正13年11月27日から29日まで、大阪朝日新聞社楼上において、第3回目の天弓会の展覧会が開催された。今回は以下の同人11名の41点の作品の展観だった。

石田喜一郎、西井蕪山、梶原啓文、横山錦渓、吉田友芳、玉村騎兵、梅阪鶯里、福原信三、福森白洋、米谷紅浪、森一兵(50音順)

 ここには浪華写真倶楽部の8名だけでなく、石田喜一郎、玉村騎兵、福原信三ら東京の大家3名も同人として加わっている。おそらくこれは、春の天弓会の展覧会に研展系の東京と名古屋の作家が加わっていたように、前年の関東大地震の影響だろう。『写真界』大正13年12月号は、「大半はピグメント印画で、米谷紅浪氏の三色ゴムの創作をはじめ同人諸氏の最近の力作を連ねて会場を圧する荘重な展観であった」と報じていた。

 森一兵は大正13年の写真界を振り返る「写壇回顧」の中で、次のように書いていた。

「顧みて浪華写真倶楽部の本年の努力の跡をたづねると、遺憾ながら特筆して世に誇ることはできない、『写真界』の振はなかったことは、啓文、一兵など、直接その衝に当ったものの、おのおの生業に忙殺せられてゐたことゝ、他に之れに代って助勢する人も出でなかった為めであったが、春の展覧会の出品印画も、粒は揃ってゐたとはいへ、前年のやうに東西の娯楽写真界を驚倒せしむるやうな大作も出なかった、更らに一つ心掛りなことは、錦啓紅(筆者注:横山錦渓、梶原啓文、米谷紅浪)三子の後継者たるべき人の発現しないことである(中略)石井、横尾の第一期から、桑田濶山、宗得蕪湖の第二期に入り、梶原啓文の第三期になって、これから第四期に移らねばならぬ過渡期である、然るにこの第四期を引継ぐべき人が現れて来ないことは甚だ心細い次第である、来るべき大正14年には、事務的の方面にも、製作的の方面にも、新人の奮励一番を要することゝ思ふ。」(注53)

 この時期の安井の、浪華写真倶楽部例会での出品作に注目すべきものがある。大正13年10月の例会で、安井は雑題の部門に《香具師を見る人》という作品を出品し、互選の2等に入っている。そして同年12月の例会で雑題の部門に《甲板偶見》を出品、互選の2等と審査選抜に選ばれた。そしてこの《甲板偶見》は、『写真界』大正14年4月号に図版が掲載された。この間、安井は3月4日から29日まで東京の上野竹之台陳列館で開催された第14回研展の会員外の部門に《眺める人々》、《初秋の柳陰》、《河口》を出品、《眺める人々》が3等賞に入選した。この第14回研展は、4月16日から20日まで、大阪朝日新聞社楼上でも開催され安井の《眺める人々》と《河口》が展示された。

 大正14年5月26日から30日まで、高麗橋の三越呉服店で浪華写真倶楽部の第14回展覧会が開催された。安井はここに、《流浪の人》、《猿まわしの図》、《花の咲く一隅》、《藪》の4 点のブロムオイル半切の作品を出品した。この時の特選(順位を付けず)を獲得したのは次の3点だった。

福森白洋  《灯し頃》ブロムオイル
梅阪鶯里  《新緑の古都》ゴム
辰巳孝友  《雨の三国港》ブロムオイル
   
優選(順位を付けず)を獲得したのは、次の4点。
   
玉村騎兵  《冬の装ひ》ブロムオイル
都路苒生  《秋二題(其二)》グリユー
小林鳴村  《波》ブロムオイル
安井娜迦璽  《猿廻しの図》ブロムオイル

 当時、玉村騎兵は高麗橋三越呉服店の写真担当として大阪に来ており、大正14年1月に米谷紅浪の紹介というかたちで浪華写真倶楽部に入会した。

 『写真界』大正14年7月号には、第14回展覧会入賞印画合評会概記が掲載されている。これは展覧会終了の3日後、6月2日の夜に、桑田商会楼上において開催されたものの記録である。おそらくこうした合評会は、毎回展覧会終了後、何らかのかたちで行われていたと思われるが、記録に残され公表されたのはこの14回展の時のみである。おかげで私たちは、《猿回しの図》についての安井仲治の貴重な証言を得ることができたのである。

 合評会は先ず福森白洋の、出品印画の技術面の完璧さに対する批判で紛糾した。福森は知人の言として、ゴム、オイルのあまりに奇麗なのに驚き、「まるで印刷屋の工場を通る様で、むしろ陰惨な感じがあった」と発言した。印刷屋云々の言に反発した米谷紅浪は、発言の訂正を要求する。「陰惨といふ言葉はあまりにひどい様で、むしろ之は荘厳、神秘、或は何か強いショックを受けるといふ意味を含んだものと思ひます」と米谷は述べている。

 安井はここで、「作る為の技術は成程完成したかも知れませんが、表現力に基く技術は未完であると信じます」と発言している。

 ここでは各論に移ってからの、安井の《猿廻しの図》のついての論議を見て行こう。

 先ず、審査員の米谷は、安井のこの作品について次のようにコメントした。

「同君の作画上の態度は極めて研究的であり、従って一個の対象も久しい凝視によって表現されて来たのを私は認めます――特に本年の出来栄へは通じて第一位のものと信じます。同君のこれ迄扱はれたグループの画で、特に此画は優れてゐると思ひます。多様の俗化した集合人物をまとめられた点に敬服します。今回の同君の出品印画中これが一番好きです又同君の花の画を見まして、同君にも力強き表現の外にもかゝるやさしい一面のあることを知りました・・・・」(注54)

 米谷は《猿廻しの図》を、「これ迄扱はれたグループの画」の中で特に優れたものとし、「多様の俗化した集合人物をまとめられた」ことを高く評価するのだった。米谷が「これ迄扱はれたグループ」と呼んでいるのは、《香具師を見る人》、《眺める人々》、《甲板偶見》といった系列の作品群を指しているものと思われる。

 それに対し安井は、先ず最初に米谷の言及した「作画上の態度」について、次のように弁明することから始めるのだった。

「私の画を作る態度を申しますと、例へば、一の煙の立昇るのを見ても、或はその製産力如何に思を馳せる人もありませう、或は衛生上、煤煙の防止法に考を廻らす人もありませう、或は又、翻って竈(かまど)に残った灰の運命に就いて瞑想する人もありませう、而して私はこの第三の人々の立場を以て自分の画を扱って居ります。」

 ここで安井は、制作における自分の基本的立場を闡明している。それは、ひとつの煙の立ち昇るのを見て、かまどに残った灰の運命について瞑想することであった。それは実利や効用、理論や法則でもって対象を見るのではなく、現象の背後にひそむ本質について考えを及ぼそうとする意思のことである。「かまどに残った灰の運命について瞑想する」とは、本質へ向う強靭な思考力の暗喩に他ならなかった。

 安井の「眼差し」に対する意識としてよく引用される次の文章もまた、そうしたコンテクストの中で解釈されねばならない。

「この猿回しの画も、元来猿は山に住むべきもの、人は猿のみにて生活するものではありません、それが一見何の矛盾もなく斯うやって共に生活して居て、夜はどこかの木賃宿にでも泊って、定めぬ旅をして行くことでせう、しかし又どこか又不安らしいところも見えます。又之を見る子供、大人とてもそれぞれ皆別々な異った考へで、この猿とそれを使ふ人を眺めてゐます。見る者と見られる者、その間には何の関係もない様で、しかし又、目に見えぬ何か大きな糸ででも結ばれてゐる様に思はれます。」(注55)

 見る者と見られる者とが「目に見えぬ何か大きな糸」で結ばれているという認識は、「かまどに残った灰の運命について瞑想する」こととパラレルである。それを、運命の網の目と言い換えてもよいだろう。

 かつて私は、これを想像力の問題としてとらえていたが、今ではむしろ思考の問題としてとらえるべきものと思う。この場合、安井にとって重要なのは、想像力でなく、思惟、すなわち考えようとする意思のあり方だった。考える方向とその徹底性こそが重要なのである。

 安井仲治という人物に驚かされるのは、この強靭な思惟の力であった。後に「天弓会第4回展覧会雑感」の中で、縦横に展開されるのも鋭敏な感受性というよりも、それをコントロールする強靭な思考力であった。それこそまさに、従来の浪華写真倶楽部に欠けていたものに他ならなかったのである。

 浪華写真倶楽部第14回展覧会と、天弓会の最後の展覧会となった第4回展覧会との間には、朝日新聞社の主催した「写真百年祭」というビッグ・イベントがあった。この催しはは大阪では大正14年10月31日より11月6日まで開催され、その後東京でも11月8日から14日まで開催された。発表された大阪でのプログラムは、次の通りである。

10月31日  百年祭記念写真競技大会(中之島公園)
11月1日  ニエプス氏写真百年祭典(中央公会堂)
 全国写真家大懇親会(灘萬ホテル)
 講演ラジオ放送(大阪朝日新聞社大江素天氏)
11月2日  写真娯楽デー(百貨店の記念催物、活動写真館の記念割引)
11月3〜6日  写真史料展覧会(大阪朝日新聞社楼上)

 当時大阪朝日新聞社の計画部長としてこの企画の中心にいた大江素天は、後年これが写真材料商、営業写真家、アマチュアの三者を打って一丸とした写真連盟(全関西写真連盟)結成のきっかけとなったのだと述べている。(注56)

 浪華写真倶楽部の中核メンバーたちによって結成された天弓会は、これまで4冊の画集を発行し、3回の展覧会を開催してきた。その第4回目で、最後となった展覧会が大正14年11月10日から12日まで、「写真百年祭」の展覧会が終了したばかりの大阪朝日新聞社楼上で開催された。後に、安井が会場と展示について不満を述べているのは、写真史料展の後片付けも完全に済んでない中で設営された会場だったからである。(注57)

 展覧会は同人の作品24点、推薦作品26点の計50点の作品による展観だった。同人は前回と同じ顔触れの、次の9名である。石田喜一郎、西井蕪山、梶原啓文、玉村騎兵、梅阪鶯里、福原信三、福森白洋、米谷紅浪、森一兵。それに今回、推薦出品として加わったメンバーは次の18名だった。緒田原龍耳、川辺はじめ、蒲生修静、辰巳孝友、田中雨月、高見雪亭、都路苒清、築山二郎、安井娜迦璽、小林鳴村、小林数寛、小山畝村、近藤衡華、作川踏雲、宮野芳樹、広田耕作、旭爪修一、広谷完三。『写真界』大正14年12月号は、「同人作品は半切のピグメント印画大部を占め推薦印画も力作を以て充たされ秋の展覧会シーズンを飾る堂々たる展観であった」と報じていた。

 この同じ『写真界』誌上に発表されたのが、安井仲治の「天弓会第4回展覧会雑感」(注58)であった。この雑誌の4ページにわたる評論は、安井の手がけた最初の本格的論文であり、その筆致の鋭さ、鮮やかさには、安井仲治という人間の魅力が遺憾なく発揮されていた。おそらく、その見事さを一番良く理解したのは、ここで批評の対象にあげられた諸大家たち本人であっただろうことは、想像に難くない。

 安井はまず最初に、この展覧会が「現在の光画の程度として皆或る水準に達してゐる」ことを認めている。「そして最も愉快な事は一度見た時よりも二度目に見た時の方が味ひのあった事であった」と続く。これは何よりも、書き手の誠実さを表現した重要なポイントである。

 安井の批評は、錚々たる大家たちに対してまったく臆するところがなかった。石田喜一郎の3点の作品に対しては、とるべきものは《浅草の印象》のみだと言い切る。それは「この作者は人物を主題とするものよりも風景に於て其真の面目を発揮されるものと思ふ」からである。

 玉村騎兵の2点は「確かなものである」が、その内の《朝霞》を取って《竹のある丘》には感心できないとする。この作品の竹が芝居の書割の様だからである。
浪華写真倶楽部の大先輩梶原啓文に対しても、《朝の春光》を除いた2点は結構だとして、その渋味は「駆出しの人間が七転八倒しても、それだけ味のあるものが出来る事は決してない」とする。

 福森白洋の《独り行く》に対しては、「よく見ると頗る複雑な調子がある、しかしその画は単なるセンチメンタリズムではあるまいか」と手厳しい。
森一兵の作品に対しては、「作者の考へ方に纏りがあるかないかを疑問とする」のであった。

 安井が最も共感を示すのは、梅阪鶯里の作品に対してである。梅阪の黙々と微笑して制作する姿勢の背後に、非常に強い信念が潜んでいることを指摘する。その作品は、「写真芸術制作の上に最も陥りやすき無意味にして厭ふべき陰鬱さ、思想と技巧の不全を覆はん為の詭策、晦渋に対してこの上なきよき教訓を垂れてゐる」のだった。そして、梅阪の《山獄の雨》とその年の院展に出品された横山大観の作品《雨》を比較して、大観の墨色がなまなましいのに対し、梅阪の黒色には作者の鋭敏な感受性がごく瑣末な色調の差異の上にもあらわれているとする。

 米谷紅浪の《裸婦》はよく出来ているが、安井が数日前に仏蘭西美術展を見たせいか、あまり感心できなかったとする。丸味は出ているがやわらか味に乏しく、顔から首すじへの調子が随分強いのだった。《奈良風景》2点の内、白壁のある方は鈍重なものであるが、奈良というものに理解がなければできない作品である。そして、「3点とも米谷氏としては何んでもない仕事であったろう、力作とは云へぬ」と締めくくる。

 同人たちの作品に対する批評ではまだ抑えた感じがあったが、推薦出品に対しては安井の筆は容赦がなかった。蒲生修静の《冬木立》に対しては、「今日の写真界は決して上手なゴムの技巧のみに随喜するものではない、この画は蝋をかむ様で何の味もない」と書き、都路苒清の2点は「技法の失敗により全く駄目なものになってしまってゐる」とした。旭爪修一の「線のリズムは私は好まぬこの種の画は作者の巧智によってなさるゝものであって深さがない、五に五を足せば十になると云ふが如き感じだ」。広田耕作の2点は「完成の域に達してゐない」。近藤衡華の《静物》は「浪花節、赤垣源蔵徳利の別れを連想する程度のものである」。作川踏雲の《浴布》には「作者の熱情の有無を疑はざるを得ない」。

 安井は自らの作品も含まれていた「推薦出品」の部門を、同人作品と比較して「烏合の衆」と呼ばざるを得なかった。そこには「骨惜しみ」をした作品が多く見られたのである。

 安井の「天弓会第4回展覧会雑感」は、いろいろな意味で衝撃を与える文章だった。なによりも、写真を院展の横山大観の絵とくらべたり、フランス美術展と同列に論じるという柔軟な発想は、これまでの『写真界』の評論からは想像を絶したことだった。それはなにも安井が奇をてらってやったことではなく、この人物が日常に行っていることの自然な延長でもあった。そして、関西の写真界が待ち望んでいたのは、まさにこうした普遍的な視野の中で写真を位置づける人物の登場だったのである。

 安井仲治は、すでにその強烈な個性を持った写真作品によって、その存在が認められていた。デビュー作《分離派の建築と其周囲》や浪華写真倶楽部第14回展覧会で優選となった《猿廻しの図》などによって、誰もその才能を疑う人はいなかった。しかし、有能な制作者はいても、誰もが納得できる論者は出てこなかった。森一兵が、大正13年を振り返って書いた「写壇回顧」の中で力説していたのも、次の世代を背負って立つ人材の不在であった。そうした状況のもとで、安井のこの文章は登場したのである。私が序論の中で触れたように、森一兵、米谷紅浪、福森白洋といったそれまでの浪華写真倶楽部を引っ張ってきた論客たちの、この文章から受けたであろう衝撃と喜びについて思いをいたすことなしに、「安井仲治」という現象は語れないのではないだろうか。森や米谷、福森らは安井のこの文章の中で、槍玉にあげられていた。しかし意味のない賞賛よりも、本質をとらえた批判の方が、作者にとってははるかに嬉しいものだということを、この三人は誰よりもよく理解していたはずである。安井の「天弓会第4回展覧会雑感」に対する、直接的な反応は無かった。しかし、それによってこの文章の価値を判断してはならない。「天弓会第4回展覧会雑感」で示された、広大な視野と鋭い直感は、昭和という新しい時代の中で、日本の写真史の中でも類希な豊かな成果を生み出したのであった。

 天弓会第4回展覧会に出品した安井自身の作品は、《或る日の彼》と《陶器(すゑもの)》であったが、彼はこの展覧会の5ヵ月後、この2作品と《夕なぎ》を写真芸術の新しい総合舞台として出発したばかりの日本写真美術展に出品したのである。


  注記

(注47) 森一兵「新装の写真界の巻頭に」『写真界』第17巻第10号(大正11年10月)p.1 (本文に戻る)
(注48) 「洋画家としてカナリ有名な金山平三君」が、時事新報の日曜画報に発表した「写真は行き詰まった」と題した文章に対する反論。金山は、どれほど精巧な写真装置を使っても「肉眼で見た自然と一致するもの」が出来るわけではない。これを自分のものにするためには、「どうしても自分の見た自然に少しでも翻訳しなければならない、これには是非絵画の智識がなければ出来ない事である、処がどう云ふ訳か写真家は一体に絵画の智識を等閑にしてゐる」として、写真家たちを批判するのだった。森はこれに対し、「万物の実在は其人々の見たまゝの色相が即ち真実で、決して客観の真実なるものはない」、そして10年も20年も写真ばかりやっていると、「自分の頭と写真機とが同化されて、レンズを通して見た色相が、自分の肉眼で見たそれと感興が一致するようになる」と主張した。最後は「作品に芸術的価値があるかドウかといふことは、要するに作者の人格と技巧とが芸術家として完成されてゐるかドウかといふことに帰するので、道具や技法やの末に係ることではなく、また第三者から見て、形がドウの色がドウのと批評すべき限りではない」としめくくる。金山平三の提起した本質的な問題が、森一兵によって論点がずらされた感じの展開となっていた。そして最後は、芸術家としての「人格主義」に落着することになる。 (本文に戻る)
(注49) 『写真界』第16巻第7号(大正10年7月)p.15 (本文に戻る)
(注50) 福森白洋「屠蘇危言」『写真界』第18巻第1号(大正12年1月)p.46 (本文に戻る)
(注51) 10人の天弓会同人の他、推薦出品としてこの展覧会に参加したのは以下の8名。山崎益蔵、作川踏雲、鈴木徳蔵、億川兆山、中村孝、宮野芳樹、島村逢紅、栗岡忠治 (本文に戻る)
(注52) 億川兆山「写真芸術社展覧会批評」『写真界』第18巻第9号(大正12年9月)p.26 (本文に戻る)
(注53) 一半洞(森一兵)「写壇回顧」『写真界』第19巻第12号(大正13年12月)p.3 (本文に戻る)
(注54) 「第14回展覧会入賞印画合評会概記」『写真界』第20巻第7号(大正14年7月)p.12 (本文に戻る)
(注55) 前掲誌、p.13 (本文に戻る)
(注56) 大江素天「結成当初の思い出」『関西写壇』第2号、全日本写真連盟関西本部、昭和24年4(?)月 (本文に戻る)
(注57) 写真百年祭の後の会場をそのまま使ったせいか、作品展示の位置が高く、また史料展に使用されたレントゲン写真等も残されたままだった。「最後に会場に就てであるが飛行機を見物する様に仰がねばならぬ額ぶちの位置は史料展の後を利用した故仕方がないかもしれぬが具合が悪い、且つ額面の硝子に自分の顔が映るのには困る、またレントゲン写真なんかが沢山並んでゐたのもよくない、私の如き神経質は芸術的な仕事と混和せしめて平気ではあり得ない、矢張り日は遅れてもよい故念入りにやってほしかった。」(安井仲治「天弓会第4回展覧会雑感」) (本文に戻る)
(注58) 『写真界』第20巻第12号(大正14年12月)pp.5-8。残念なことに、この重要な批評文が、私もその企画に加わった2004/5年の生誕百年安井仲治展カタログでは見落とされてしまった。それだけに、最初読んだ時の驚きは大きかった。このテキスト全体の中で、安井のこの批評文に過度に重きが置かれた理由の一片である。しかし、それにしてもこの批評文は、やはり安井仲治の原点とも言える大きな魅力を持っている。その批評の切り口の鮮やかさと、広大で柔軟な視点、考え抜かれた言葉のリズムと論理性・・・、ある意味でここには後の安井の魅力が全て出ている感じである。そのより詳細で周到な展開は、半年後の『写真界』に発表された長文の「浪展私評」に見ることができる。これはやはり、「最初の」文章の発表だという点に価値があるのだろう。 (本文に戻る)


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